欠落の代償−08page






 気持ちの良い位に軽快な音が聞こえた。
 …と、同時に後頭部が痛かった。

「………」

 頭がぼうっとする。
 何が起きたのか。
 とりあえず机に伏せたままの顔を上げる。
 むぅっ、と睨むような目で見つめるてくる真理亜と目が合った。

「起きた?」
「…ぐぅ」
「あ、こら。寝ないの」

 くいくいっと髪を引っ張られる。かなり痛い。

「真理亜。禿げるからやめて」
「まだ若いから大丈夫」
「いや、若いとか関係ないし」

 止める気配がないので諦めて身を起こした。
 昼休みの教室。クラスの半分の生徒がいないのはグラウンドか他の教室に遊びにいっているからだろう。少なくとも授業が始まる気配はまだない。

「何? もう昼休み終わり?」
「ううん」
「じゃ、なに?」
「なんとなく」
「………」
「………」
「理由をどうぞ」

 真理亜は両手を腰にあてて、ふんと鼻を鳴らす。

「昼間から寝てるから」
「授業中に寝るよりマシじゃない」
「授業中も寝てたじゃない」
「…それは脇に置いて」
「はいはい、置いちゃだめ」

 脇にどける仕種をする狭霧、間髪入れず戻す仕種をする真理亜。

「で、なんでそんなに眠いの?」
「…ぐぅ」

 ごすっ!!

「真理亜。…カバンの角は反則」
「水かぶるより目は覚めるよ。それともまだ寝る?」

 にこにこと満面の笑みを浮かべる彼女はかなり恐い。
 もちろん狭霧は首を横に振る。
 上目遣いに恐る々々尋ねる。

「もしかして、怒ってる?」
「ん、なに? 怒るような事したの?」
「………」
「まさか、あれだけ言ったのに夜出歩いてるなんてことないよねぇ…」

 微かにこめかみが震えている。
 かなり危険な兆候である。

「真理亜。…ちょっと落ち着いて」
「えー、いつだってあたし落ち着いてるよぉ」
「…うそつき」

 ごすっ!!

「真理亜。…カバンになに入れてるの?」
「教科書。良い子は机の中に入れっぱなしにしないの」
「良い子はカバンで人を殴らないと思う…」

 痛そうに抗議する狭霧。
 もっともそれが通用する相手ではないが。

「懲りたら夜はおとなしくしてるの。寒くなってきたし、本当に進級出来なくなるよ?」
「どうして、そんなに気にするの?」
「ん? 何が?」
「別に約束を忘れた訳でもないし、破るつもりもないわ。だた、気になる事があるから」
「辻斬りさん?」
「ん…。知ってたの?」
「もちろん噂だけね。親切な人たちがわざわざ教えてくれたよ」

 真理亜は肩を竦めた。
 親切な人達が具体的には誰なのかは分らないが、何のためかは狭霧にはなんとなく理解出来た。
 もちろん、真理亜も分っているのだろう。

「で、見つけてどうするの?」
「それは…」

 あくまで変わらぬ笑顔のまま問いに、返答に窮する。

「だったら、駄目だよ」

 返答の言葉を探してる間に真理亜が言った。

「どうするか、自分でも分らないのに。そんな状態で辻斬りさんに会ったとしたら心配だよ」
「どっち?」
「?」
「どっちが心配なの?」

 首を傾げる彼女に狭霧は挑むように顔を近づける。
 そして彼女にしか聞こえないように囁く。

「ヤる事? それともヤられる事?」
「後者」
「…普通、即答するような事じゃないと思うんだけど」
「時間かけたほうがいいんだったらがんばって引き伸ばすよぉ」
「いや、がんばってもらっても困るんだけど」

 ぐでっと机に突っ伏す狭霧。すると正面から真理亜がのしかかる。背中に彼女の顎の感触がする。

「狭霧は良い子? それとも悪い子?」
「…意味は分らないけど。多分、後者じゃないかな?」
「悪い子はねぇ、約束を守らないんだよねぇ」
「………」

 ぐりぐりと顎の感触が首の付け根辺りから下へと下降していく。徐々に肩の方にも軟らかなふくらみが押し付けられていく。

「狭霧は良い子? それとも悪い子?」
「…真理亜」
「なぁに?」
「胸。大きくなった?」
「あったしは昔っからナイスバディ。ていうか、ごぉまぁかぁさぁなぁーいのぉー」
「…良い子」
「そうそう。ちゃんと約束したもんねぇ」

 すぐそばの狭霧にすら聞き取れるぎりぎりの声。

「あたしが最初で最後だよ」

 同性である狭霧ですら、ぞくりと鳥肌がたつ濡れた声。

「でも、どうして約束以外の事は聞いてくれないかなぁ?」
「…真理亜。どこ触ってるの」
「いや、狭霧はどうなのかなぁって。…人の事言う割にはなかなかの手触り」
「こらっ。服の中に手を入れない――」

 その手を避けようとした瞬間。
 ぐらりっ、と体が傾いた。

「え?」

 声を漏らしたのはどっちだったのか。
 二人は机から仲良く転がり落ちた。
 勢いで机も倒れて大きな音を立てる。
 一瞬で静かになる教室。
 生徒達の視線が二人に集中する。
 先に起き上がった真理亜が教室を見渡し、

「てへっ」

 笑って誤魔化した。

「………」

 誤魔化せなかった。教室は静かなままだった。
 狭霧は真理亜の手をとって立ち上がらせると、なんとなしに教室を見渡した。
 何人かの生徒と目が合ったが、相手はすぐに目を伏せるか真理亜の方へと目を向けた。
 ちょっとしたドジをしでかしたクラスメイトを見るような態度ではない。
 迷惑、あるいはそれを通り越して何かに怯えるような…。

「…出る」
「え? あ、ちょっと待ってよ」

 先に出た狭霧を追って、真理亜は倒れたイスと机を元通りにし廊下へと出た。
 教室の戸を閉めた途端に教室に少しずつ活気が戻っていく。

「真理亜だけだったら出なくても済んだんだけどね」
「気にしすぎだよぉ」
「別に気にしてはいないわよ」

 狭霧は肩を竦めて歩き続け、その後ろを真理亜がついていく。

「どこいくの?」
「適当」

 そう言いつつも狭霧の歩き方に迷いはない。
 階段を下り始めたところで真理亜にも行き先の見当はついた。
 一階の階段裏だ。

「本当に狭霧ってあそこが好きだねぇ」
「別に好きって訳じゃないけど」
「だって、いっつもあそこにいるじゃない」
「人、来ないから」
「…生きてる以上、誰かと関わらないなんて無理だよ?」
「それでもその方が幸せだと思う、お互いに」

 肩を竦めながら狭霧が問うた。

「ねぇ、真理亜。欠陥品が正常なモノと一緒に並んでていいと思う?」
「うーんと、分かんない。…それって狭霧がよく言ってる欠落の話かな?」
「そう」
「えっと、難しい事は分かんないけど。それは狭霧にとって都合の悪い話じゃないかな」
「え?」

 たたたっと真理亜は階段を駆け下り、狭霧を追い越して踊り場で振り返った。

「狼さんはね。羊さんを食べていかなきゃ生きていけないんだよ。だから、羊さんの群から離れちゃいけないんじゃないかな、て思うんだけど」
「…羊にとっては迷惑な話ね」
「そうだねぇ。でも、狼さんはお腹空かせてるから。それに羊さんの中には食べられてもいいかぁって酔狂なのもいるかも知れないよ?」

 クスクスと上目遣いに笑う真理亜。
 彼女には欠落は見られない。
 なのにどうしてだろう。
 欠けている人間達にすら見られなかった怖さが彼女にはあった。

「でも、その酔狂な羊さん一匹でお腹いっぱいになってくれるかなぁ」
「大丈夫でしょ、たぶん」

 踊り場で立ち止まった真理亜の脇を通りすぎる。
 目と目が合う。
 冗談風の会話の中に真実があった。

「空腹の狼は食べるのが恐かった。食べるという事が罪だと理解出来てしまっていたから。…だからこそ救われたのよ。食べる事を赦してくれた羊に、ね」

 真理亜は再び前を行く狭霧に対して後ろから飛びついた。

「こら。階段で抱きつかない。危ないって」
「へへっ」

 腕にしがみついたまま離れない真理亜に苦笑しながら、狭霧は胸のうちで呟く。

『…そして、赦してくれたからこそ、その羊も食べられなくなってしまった。ホントウに愚かな狼、ね』

 二人は一階まで降りて階段の裏に回って立ち止まった。
 そこに予期せぬ人物がいたからだ。

「あれ? 筒井君?」
「やぁ」

 いつも変わらぬ笑顔のクラスメイトに対して、狭霧はただつまらなそうな視線を向けるだけだった。

「あー。また狭霧、筒井君に不器用面してるぅ」
「それを言うなら仏頂面」
「どっちにしても僕にとってありがたくないような気がするね」
「気にしちゃダメだよ。狭霧の場合、別に筒井君じゃなくてもよくこんな顔してるし」
「はっはっは。大丈夫だよ、清里さん。その程度で僕の面の皮はビクともしない。伊達にクラス委員なんてやっちゃいない」
「クラス委員って大変なんだねぇ」
「もちろんじゃないか。表の偽善。裏の人脈。使えるものは良心から過去の傷までなんだって使うのが仕事さ」
「すっごーい」
「いけしゃあしゃあと出鱈目を言わない。真理亜も信じないの」
「だってぇ」
「だってじゃない。で? なんで筒井はここにいるの?」

 言われて彼は首を傾げる。

「なぜって言われても。そういう君達は?」
「私達はたんなる気分」
「だったらボクもそうさ」
「………」
「………」

 二人の間に沈黙が降りる。真理亜の目には火花が散っているように見えた。

「…で?」
「いや、で? とか言われても」
「何の用なの?」
「いやなに、ちょっとお話したいなぁ、なんて」

 あはは、と乾いた笑いを漏らす筒井。

「へぇ、筒井君って狭霧に興味あるんだぁ」
「それはもう、色々と」

 ぴくっと狭霧の眉が一瞬跳ねる。

「そう、でも私は筒井に興味なんて何もないわ」

 肩を竦める筒井に狭霧は言葉を付け足した。

「昨日もそう言ったけどね」
「そうだったね」

 筒井はやはり笑顔を変えぬままだった。
 ああ、そう言えば昨晩もこんなだったな、と真理亜の怪訝な視線をかわしながらそう思った。






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