欠落の代償−10page







「その割には」
「ん?」
「その割には誰も死んでいない」

 彼を見ないで彼女は言った。

「確かにね」

 まるで消しゴムを無くしたとか、シャーペンの芯を使い切ってしまったとかそんな軽い感じで肩を竦める。

「確かに殺してはいないね。誰も」
「殺せない…でしょ?」

 瞬間、彼の表情が初めて笑顔以外のものになった。
 彼の顔を見ていない彼女にも空気でそれが分かった。
 確認するまでもない、そこには悪鬼がいるのだろう。

「そうさ。殺せないのさっ。あんなただ生きてるだけの連中すら僕には殺せない。僕には殺す事が許されているはずなのに。あの人に選ばれた人間なのにっ!」
「無様ね」

 ポツリと呟いた瞬間、大気が裂けた。
 金属と金属が重なる音が響く。

「口に気をつけなよ、思わずヤっちゃう所だったじゃないか」
「そうね」

 上からのしかかるように振り下ろされた刃を彼女の刃が下から止め、柄を持つ右手と刃の背を押さえる左手に力を込めて押し返す。
 頬に当たった冷たい感触に彼女は目を細める。
 夜風に冷やされた血涙が彼の刃から頬を打つ。

「それはともかく、無様はお互い様じゃないか」

 彼は笑顔に戻ってナイフを仕舞う。拭かないの? と彼女は眉を潜める。

「知らないと思ってる訳じゃないだろ? 犬猫は殺せてもキミは人間を誰一人傷つける事が出来ていない」

 彼女も自分のナイフを仕舞った。
 その前に自分の服で付着した血を拭ったうえで。
 彼は彼女がナイフを仕舞ったあたりを見て面白そうに首を傾げる。

「キミのそれはどこで買ったの?」
「どうして?」
「だってどうみても僕と同じモノじゃないか? もしかして買った所は同じじゃないかな?」
「そうね。でも、買った所が違っても不思議じゃないわ。これは偽物だもの、そうでしょ?」
「偽物…か、せめてレプリカと言って欲しい所だけど。それと、あの人の持っていたナイフの複製なんて売ってる所はそうそうないと思うけどね」

 言って彼は手を差し伸べてくる。
 彼女は理解出来ないというふうに彼を見つめる。

「…なに?」
「一緒に来ない?」
「え?」

 意味が理解出来ず、彼女は問い返す。
 予想外の言葉。

「人間を傷つけられないキミ。命を奪えない僕。共にあの人を目指しながらも到達出来ない半端モノ」
「否定はしないわ」
「だから、僕達は一緒にいるべきだよ。僕達には越えなければならないのに越えられない一線がある」
「ヒトを…殺す事」
「そう。キミにも僕にも出来ない事。だけど、二人ならどうだ? お互いに影響しあって共に越えよう。僕達が出会ったのは偶然なんかじゃない。そうに決まっている。僕達は共にいるべきなんだ」

 とんだ、Boy Meets Girlだ。
 彼女は笑いたくなった。否、笑っていた。

「…何がおかしい?」
「私にもわからないわ」

 分からないままに笑う。
 何が愉快なのか、何が腹立たしいのか。理解出来ない感情に翻弄されて。
 ああ、でもこれだけは確かだ。

「あいにく私はあんたにはもう興味はないの」

 それだけは確かだ。





「狭霧、どうして笑ってるの?」
「ただの思い出し笑いよ」

 反射的に返して、狭霧は自分の考えに没頭して我を忘れていた事に気付いた。
 興味がないわりには、と自分自身に苦笑する。
 ここは一階階段裏。決して堤防の裏側ではない。
 ふいに筒井がこちらに歩み寄ってきた。
 否、単に脇を通ってすれ違う。

「あれ? 筒井君?」
「嫌われないうちに退散しておくよ」
「えー、もう諦めるのぉ?」
「冗談だよ。どうせ、もうすぐ昼休みが終わるからね。おっと」

 階段裏から廊下に出て筒井がのけぞった。
 何事かと二人は筒井を見るが、続いて女子の悲鳴を聞いて状況を理解した。
 恐らくぶつかりそうになったのだろう。
 丁度、階段の影になって二人にはその相手は見えなかったが声で誰かは理解出来た。

「大丈夫かい?」
「うん、大丈夫。でも、びっくりしたわ」

 恐らくは同じクラスの女子。

「あの子達だね」

 真理亜が小さく呟く。
 事ある度に狭霧の昔の事を引き合いにだすグループ。
 悲鳴を上げたのは昨日、昇降口で聞こえよがしな陰口をたたいていた一人だ。

「筒井君、こんな所で何をしていたの? こっちに何かあるの?」

 ひょいと顔を覗かせて、相手は言葉を失った。
 まるで敵のなわばりに気付かずに足を踏み入れた犬のようだと狭霧はそう思った。
 ぎょっとして、次に威嚇して、そしてそれまでの自分の表情をまるでなかったかのように平静を装って引っ込む。

「じゃぁね、早く戻らないと昼休みが終わるよ?」

 コツコツと足音が遠ざかっていく。
 それに一瞬遅れて複数の足音が続く。恐らく筒井についていったのだろう。

「?」
「どうしたの?」

 怪訝な表情の狭霧に真理亜は首を傾げた。

「筒井君の言う通り、もうじき昼休みが終わるよ?」
「うん」

 言われても足が動かない。
 変だ。階段の影に隠れているが人の気配がする。
 女子のグループは筒井についていったのではないのか?

「誰かいるの?」

 呼びかけると気配が微かに動いた。
 さらに声をかけようとして、別の声に遮られた。

「ユーキー。なにしてるのぉ」

 パタパタパタ、と気配は足音を残して遠ざかっていく。
 恐らく、一人だけ筒井についていかず残っていて、誰かがそれに気付いて彼女を呼んだのだろう。

「なにか用があったのかな?」
「さぁね」

 真理亜の不思議そうな表情に、狭霧は肩を竦めるしかなかった。






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