欠落の代償−16page
「え、うそっ!?」
不吉な予感に慌てて駆け寄って確認するが、予感した通りに鍵が閉っていた。
冗談ではない。いったいどうやったら、たかが扉が閉った程度の衝撃で鍵が掛かってしまうのか。
確認の為に扉を揺すってみるが開きそうにない。
ガラス扉の内側には鍵を開けるレバーやつまみは見当たらない。
ただ、鍵穴があるのみだ。
「そうだっ、裏口っ」
裏口なら内側から開けられるのではないか。
それを探そうとしてふと思い出す。
「あ、筒井君が…。どうしよう」
当然、彼がこの事を知っているはずがない。
だが、教えるにしても、自分がここにいる理由をどう説明する?
まさか、後をつけました等といえるはずも…。
「やぁ、こんばんわ」
学校でいつも聞く声。かわりない声。
ビクッとそのあまりの変わりなさに体を震わせて振り向いた。
そこには服装こそ制服ではないが、いつも通りの笑顔の彼がそこにいた。
「………」
頭の中が真っ白になって何も思い浮かばない。
何から説明しようかなどという迷いすら考え付かない。
だがら、気付かない。
彼女の知っている彼とは違う、瞳の輝きに。
「あ、あの。その」
ゆっくりと近づいてくる彼にどもりながら、せめて扉の事を説明しようとするがうまく言葉にならない。
「そ、そこ。と、扉が」
「ああ、閉っているんだね」
何もかも分っていると言う風に彼は肯く。
通じたのかと彼女はホッと息をつくが、続く言葉に目を丸くする。
「君を逃がさない為に、ね」
…なんの事だろう?
「いままでバレたら色々と面倒だから身近な人間は遠慮してたんだけどね。でも、それが僕の越えられない壁を作ったのかな、なんて思ったりしてね。試行錯誤って言うのかな? とにかく色々試している最中なんだ」
意味が分らない。ただ、何かが変だ。
いつもの彼と変わらない。
変わらないまま近づいてくる。
それが変だ。
変だ変だ変だ変だ。
こんなところで、こんな時間に、こんな風に会ったのに。
なぜ何も変わらない?
「あ、あの」
「ん? なにかな?」
「どうしてこんな所に?」
意を決して尋ねると彼はあっさりとこう答えた。
「適当だよ」
「て、適当?」
「そう。君がついてくるからさ。試すのにいいかと思ってここに入ったんだ。うまい具合に鍵は掛かってなかったから、ね」
背にその鍵が掛かっていなかったはずの扉が当たる。
なぜ?
疑問に対する回答に行き当たるのには数秒を要した。
簡単だった。
何の事はない、じりじりと後ろに下がればいずれは扉にたどり着く。
「後は待っていただけ。君が来るのを」
ああ、なんだ。つけていたのを気付かれていたのか。
そう思って、ようやく彼のいつもと違う部分を見つける。
そう、昼間の彼はあんなものを持っていない。
闇の中、銀色に輝く刃物。
「筒井…君?」
「ん? なにかな?」
「冗談…だよね?」
言われて彼はしばらくきょとんとしてから、にっこりと肯いた。
彼女はホッと息を付いた。
肩の力が抜けて辻斬りという単語すらも思い浮かばない。
「冗談みたいなもんさ。君の生きてきた時間も、これから起きる事もみんな冗談さ。時間が経てばみんなキレイに忘れられてしまう」
銀の光がゆっくりと掲げられる。
その向こうで変わらぬ笑顔の彼がいる。
「例外はいつだって存在するけどね。あの”焼けた殺人鬼”のように」
彼女の中でピンッと張っていた糸が切れた。
「いやぁぁっ!!」
悲鳴を上げて後ろに下がろうとして固い感触に開く事のない扉の事を思い出した。
彼はゆっくりゆっくりと近づいてくる。その笑顔は彼女の恐怖を愉しんでいるようだ。
「ひっ!!」
目を瞑って横へ回り込もうとする。壁に肩が当たり苦痛にうめいたがそれでも足に力を込めて走り出す。
後ろは見ない。見たら追いつかれる気がしたから。
「うそようそようそよウソヨウソ…」
半狂乱で呟きながら逃げる。そしてたどり着く、裏口へ。
歪んだ笑顔を浮かべて希望の扉へとすがりつく。
しかし、その希望の光は瞬時に立ち消えた。
「いやっ、なんでっ」
ガチャガチャとドアのレバーを降ろす。
しかし、動かない。
「やだっ、やだやだっ。やめてよっ」
ふと、視線がレバーの上に行く。
つまみがある。
「あ、ドアロックッ!」
捻ると手応えがあった。
今度こそとレバーを降ろす。
ガキンッ、と決して小さくない音が静かなビル内に響き渡る。
「…え?」
呆然と自分が手にしているものを見つめる。
ドアのレバーだ。
しかしドアは開いていない。
ただ、レバーだけがドアを離れて彼女の手元にある。
「あーあ、駄目じゃないか。壊しちゃ」
声はすぐ耳元で聞こえた。
「な…んで?」
カランッと暗闇に反響するレバーの落ちる音。
振り向く事は出来ない。
なぜなら、振り向けばきっとそこにはいつも通りの彼がいるから。
…いつも通りの笑顔で刃をかざす彼が。
「なぜ、か。それはここが僕の妄想だからさ」
「妄想…って?」
「いつからかは分らない。だけど、僕は気付いたんだ。僕の思い通りに事が進む時間が存在する事にね。『それ』はね、僕がある事を望むと起きるんだ。そして、その望みを叶える為に必然的な偶然を起こし続ける」
何を言っているのか、まったく理解出来ない。
開く事のない裏口のドアに背中を押しつける。
背中には鉄の冷たい感触、正面からは熱気を伴う狂気な言葉。
気が狂いそうだ。
「例えば誰にも邪魔されない場所。例えば、何の疑問もなくおびき出されてくれる獲物。例えば逃げ出す度にそれを阻むアクシデント。例えば僕を襲う敵から守る幸運。例を上げればキリがない。『それ』らは偶然を必然に捻じ曲げて僕を支えてくれる」
瞬間、彼の表情から始めて笑顔が消えた。
「…だけどね。『それ』はたった一つだけは叶えてくれないんだ。馬鹿な話だけど、僕の望むたった一つだけを『それ』は手出しできない。だから、さ」
ナイフの刃先がユキの顔の高さまで上がる。
言葉もなく涙目で意味もなく首を左右に振る彼女に対して、彼はまたにっこりと笑う。
「だから、僕ががんばらないとね。あ、そう言えば」
笑ったままの彼の周囲を、空気を裂く音と共に銀の光が踊った。
「君の名前、なんだったっけ?」
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