欠落の代償−19page
「…で?」
「んに?」
口の中にパンを頬張ったまま返事をする真理亜を見て狭霧は嘆息する。
「いつまでここにいるの?」
こことは無論、狭霧の部屋だ。
サボり二人組は遅まきながら軽い昼食を摂っていた。食事の内容は主にコンビニで買ってきたパン類。栄養のバランスが悪いと言って真理亜が何かを作ろうとしたが、黒い液体の前科があったので全力で止めた。
「いつまでって、時間制限あるのぉ?」
「そんな訳じゃないけど…」
「じゃぁいいじゃない」
すでに三つ目のパンを包むビニールを破る。彼女のもとにはまだ手付かずのパンが4つもある。
…全部食べる気だろうか?
意味もなく不安になった。
「しかし、ここに来るのって久しぶりだけどぉ」
真理亜は部屋をぐるっと見渡した。
「ほんとになんにもないねぇ」
「必要ないもの」
TVも本棚もカレンダーも。テーブルすらない。箪笥の代わりはプラスチックの収納ケース。食器類はダンボール箱の中で半分は新聞紙で巻かれた上に埃を被っている。
日常から個性というものを切り取ったような空間。
「あ、あれまだあったんだ」
真理亜が指差したのは、彼女が狭霧の誕生日に贈ったアニメキャラの時計。
「捨てるっていったら怒るじゃない」
「とーぜんでしょ。せっかく人があげたものを粗末にしたら駄目」
「…だったらせめてもー少し普通のものを」
「この殺風景な部屋に一つでも女の子らしいものをと思って」
単に異彩を放ってるだけだと思うけど、などと狭霧は言わなかった。
後が恐いから。
「そう言えば真理亜の誕生日っていつだっけ?」
「…えーと。…いつだっけ?」
「自分の誕生日を覚えてないのか、あんたは」
「人の事言えないでしょ。自分の生年月日を18も上に書いたのはどこの誰なのぉ?」
「西暦の十の位と一の位を入れ違えて覚えてただけじゃない」
「それが書き間違いじゃなくてずっとそう思っていたところが問題じゃないかなぁ」
「別に生活に支障をきたすわけじゃないでしょ。誕生日なんて」
「それをいっちゃおしまいだと思うけど」
言ってからポンッと真理亜は手を打った。
「思い出した。今週の金曜日だ」
「誕生日?」
「うん。そう」
「プレゼント、何かいる?」
「えー、くれるのぉっ!」
「…何。その世界の終わりみたいな顔」
「だって、いままでくれなかったじゃないのぉ」
「知らなかったもの、誕生日」
「聞かなかったじゃない」
「言わなかったじゃない」
「………」
「………」
空間に見えない火花が散る。
「…それは置いておくとして。何がいいの?」
「狭霧のカ・ラ・ダ」
「却下」
即答だった。
「えー」
「えーじゃない。だいたい年頃の娘の言葉?」
「狭霧ってなんか親父くさーい」
「親父で結構。で、他には?」
「んー、別にいいよ?」
「いいの?」
「だって、誕生日って別にプレゼントを渡す日でもないし、祝うほどの日でもないでしょ? たかだかその日に生まれたってだけで」
「普通は祝うもんじゃないの?」
「いいよ、普通なんて。あたしには必要ないし」
「………」
「もうわざわざ生まれた日を特別な日にしなくてもいいの。本当の特別に手が届きかけているから」
変わらぬ表情、変わらぬ声音で語る言葉。
そこには熱と棘が隠れている。
それに気付かぬふりをしながら狭霧は言葉を紡いだ。
「その割には私にはアレをくれたじゃない」
目で目覚まし時計を示すと、真理亜は悪戯っぽく笑った。
「だって、誕生日って口実がなかったらアレを受取ってくれなかったでしょ」
「…口実だったのね」
「うんそう。…だからって捨てないでね」
「当然でしょ」
真理亜は微かに目覚し時計へと延びかけた手を睨んで牽制する。
「でもなんでわざわざ口実まで作ってあんなものを?」
「別にアレでなくても良かったんだけどね」
新たなパンの包みを破りながら続けた。
「この部屋にあたしからのモノを置きたかった。ただ、それだけなの」
「じゃねー」
玄関から少しでて振り返り真理亜が大きく手を振る。
声が大きいと注意したかった狭霧だが、どうせ言っても無駄だろうから諦めた。
部屋の中には未開封のあんドーナツが一つ。
真理亜が食べきれなかった分を押し付けられたのだ。
食べかけのものでなかっただけマシ、そう納得する事にする。
「あ、真理亜」
「ん?」
帰ろうとした真理亜が足を止める。呼び止めた方が困惑した表情をしているのに首を傾げる。
「なに、狭霧」
「えっと」
歯切れが悪い。何かを迷うように。何かを探すように。
「もし、ね。もしも私が…」
「………」
言葉が途切れる。そこから先がない。
言葉を失ってしまったかのように口をつぐむ。
「狭霧?」
「ごめん。なんでもない」
「そうなの?」
「うん」
真理亜は何か釈然としないようだったが、それ以上深入りせずに彼女は帰っていった。
その背を見送りつつ狭霧は呟く。
「何を言おうと…したんだろう」
本当に何を口にしようとしたのか、彼女自身分っていなかった。
ただ、あの時。何かを衝動的に口にしようとした。
裏切りのような罪悪感を伴うものだったような気がする。
「どうなってしまったんだろう」
始めは辻斬りの噂だった。
それまで危うさを孕みながらも安定していた世界が、真水に垂らした絵の具のように広がって不透明になっていく。そんな感じがする。
「どうなってしまうんだろう」
他人には理解できない不安が胸のうちを塗りつぶす。
そして、今夜も夜の闇をさ迷うのだ。今の気持ちを誤魔化すために。
「やぁ、こんばんわ」
「………」
壁に背をあずけて、まるで狭霧をまっていたかのように彼は声をかけた。
夜の街を気の向くままに歩いていた彼女を待ち受けるなんて出来るはずもないのに。
彼は笑顔。いつでも笑顔。
たぶん、たどり着くところまでいけたとしても変わらないだろう。
何をしていたのか、それともこれからするのかは分らない。
無言で彼の前を通りすぎる彼女に彼は黙って肩を竦めた。
「いいの?」
何を示しているのか分らない問い掛けが彼女の足を止める。
彼女は振り返らない。
「何が?」
背を抜けたままの彼女。そして、彼もまた背を向ける。
「つまらない意地を張っていると、僕が先にたどり着いちゃうよ?」
「………」
それを伝えるのが目的だったのか。
足音と共に彼の気配が遠ざかる。
足音が聞こえなくなっても彼女はその場で立ち尽くしたまま空を見上げた。
曇って月すら見えない。
「言ったよね」
そこにいない彼に向かっての言葉が黒い空に吸い込まれて消えた。
「興味ないって」
電話の呼び出しが部屋に響き渡り鳴り終わらない。
本来、電話を取るべき部屋の主は留守だ。
すでにコール数は10回を越えている。
液晶のディスプレイには『マリア』と表示されている。
鳴り終わったのはコールが20回近くになってからだった。
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