欠落の代償−30page
「かまわない。私はたとえ私である事を捨てても彼女と共にいたいのよ」
「…何の冗談だい? それは。キミはあの人へと通じる道を捨てると言うのかい?」
「ええ、そうよ」
「しっんじられない。…正気じゃない」
「何をいまさら。私達は狂人よ。その事はあの人に出会う前から気付いていたわ」
ドンッと筒井を片手で突き飛ばした。
そんなに大きな力は込めていない。
しかし、筒井はヨロヨロと後退して尻餅をついた。
その表情は空虚。
予想外の言葉に呆然としている。
「両親にも自分自身にすら切り捨られて、非現実しか身の置き場のなかった私に手を差し伸べて一緒に堕ちてくれようとしている子がいるわ。彼女に会うまであの人を追う事が私の全てだった。でも、さっきのあんたを見てようやく気付いたわ。殺すという行為であの人に為ろうとした私達は、結局ただの殺人鬼にしかなれないって事に。だから、もういい。届かないあの人より、届く人に手を伸ばすわ」
「だったら、僕はどうなる? 僕はどうすればいいのさ」
「知らないわ、そんな事。ただの殺人鬼として新聞やTVを賑わすか、普通という枷の中に戻るか、好きにすればいいじゃない。でもね」
狭霧は筒井を見下ろして言った。
「そこにあの人はいないわ。”焼けた殺人鬼”はどこにもいない。私達が辿り着ける場所にはね、きっと」
濁った目で見上げる筒井。
その表情には張り付いた笑顔はない。
狭霧は血に濡れた刃を服の裏地で拭ってホルダーに納め、そして筒井を一瞥してから背を向けた。
「僕は…認めない。僕達は…いや、僕は。僕だけはあの人に」
「勝手にすれば?」
背中から届く呟きに言い捨てて堤防の階段に足をかける。
「待てよ」
制止の声に一瞬だけ足が止まる。
「彼女が、受け入れてくれるって? 彼女が受け入れてくれるのは殺人鬼としてのキミだろ?」
「…そうね」
「あははっ。語るに落ちているじゃないか。あの人を目指さないキミを彼女が受け入れていくれるのかい。キミの言っている彼女っていうのは清里さ――」
「受け入れてもらえないなら…仕方ないわね」
「仕方…ない?」
「だったら、諦めるしかないじゃない。そうでしょ?」
返事はない。
一度止まった足はそれ以降止まらずに階段を上がりきって反対側へと下りる。
もう筒井からは見えないだろう。
ふと、人間のものとは思えない叫び声が聞こえたが、もう興味はなかった。
「帰ろう」
色んな意味で終わった気がした。
もうやる事は何もない。
疲れた。
自宅のアパート前まで来て溜息をついた。
途中で巡回中の警官に服に付いた返り血を気付かれて追いかけられたのだ。
昔ならこんな事はなかったのだが。
筒井と別れたあの時を契機に何か流れのようなものが変わってしまったのか。
自分は真理亜の言う狼ではなくなってしまったのかも知れない。
だからもう偶然は味方しない。
それでもいい、と狭霧は思う。
自分には彼女がいれば、彼女さえいてくれれば…。
「…真理亜? 何してるの?」
「あー、狭霧ぃ。おかえり」
部屋のドアの前で真理亜が体育座りをして待っていた。
「…何してるの? て聞いているのだけど」
「見て分からない?」
「ごめん、全然分からない」
「うわっ、狭霧がつめたいぃ」
「…で、何?」
「えー、遊びに来ただけだよぉ」
腕時計で時間を確認する。
いや、確認するまでもなく真夜中だ。
「こんな時間に?」
「こんな時間まで出歩いているのは誰よぉ。まったく、電話には出ないしどこ捜してもいないし」
「どこ捜してもって…」
脳裏に学校で眠たそうにしていた真理亜の様子が思い浮かんだ。
「もしかして…昨日も?」
「あ、あったりぃー。どんどんパフパフ」
「えーと、それはいいから。で、もしかしてどこ捜してもいないからって?」
「そ。帰ってるかなぁと思ってここに来たんだけどいないから」
「そのまま家に帰るという選択肢はなかったの?」
「もう電車止まってる」
「…両親が心配してるんじゃないの?」
「あ、ちゃんと電話したよ?」
「なんて?」
「大好きな人の所に泊まって来るって」
「どーしてあんたはそんな誤解を招くよーな表現を」
「えぇ? 別に間違っていないよぉ?」
額を押さえて頭痛を堪えるようによろめる狭霧。
通路の手摺りに手を置いて体を支えると、上着の服の裾をつんつんと真理亜に引っ張られた。
「真理亜?」
「これ…なに?」
「…あ」
服のあちこちに付着した血液。それ自体はあまり目立つ量ではなく暗がりである程度誤魔化せるレベルだったが、この距離ではさすがに誤魔化しきれない。
裾を握る手にぎゅっと力がこもる。
「ねぇ、狭霧これって」
「殺してないよ。誰も」
裾を掴む真理亜の手を包むようにとって、優しく離させる。
「何があったか…話してくれる?」
「うん…。でも、その前に」
鍵を差し込んでドアを空けて、部屋の明かりをつける。
「取りあえず、中に入ろう。体も冷えているでしょ?」
「うん」
真理亜を先に部屋へと上げてから、狭霧は玄関のドアを閉めて鍵をかけた。
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