欠落の代償−32page
「一つだけ聞かせて? あたしは特別なのかな? 狭霧にとっての特別になれたのかな?」
「私には真理亜しかいない。真理亜しか見えない。あの人がいないこの世界で、あなただけが唯一のモノ。だから、殺せないの。だって、殺してしまえば真理亜もこの世界からいなくなるから」
「唯一?」
「そう、唯一。真理亜だけ…。でもね、真理亜。真理亜は私を捨ててもいいの」
「なぜ、狭霧を捨てるの?」
「私は約束を果たせない」
「違う」
「違わない。私はもう…あなたの言う狼ではない」
真理亜は狭霧の頭に両手をそえて、軽く胸から引き離す。
そして、狭霧の両目を覗き込む。
「自分では気付かないんだね」
「…え?」
「なぜ、狭霧は狼でないなんて言うの?」
「だって、私はもう真理亜を殺せない」
「だったらあたし以外の人間を殺してしまえばいいじゃない」
「何を言ってるのよ。約束したでしょ? 最初で最後だって」
「でも、狭霧は言ったよ。約束は果たせない。あたしを殺せないって」
「…言ったわ、でも」
「どっちにしても果たせない事には変わりないよ。だったら私以外の誰かを殺してしまえばいいじゃない。どっちにしても約束を破る事になるのなら、”焼けた殺人鬼”さんを目指す方がお得なんじゃない?」
狭霧は真理亜の両手を払って目を逸らした。
自分の心が剥き出しで見つめられている気がしている。
「私は…真理亜しか殺したくない。あなたしか殺したくない。生きてて欲しいあなたしか殺したくないの」
「そっか。だったらやっぱり狭霧は狼のままだよ。…いいよ、そのままで。狭霧が望むならいつまでも一緒にいてあげる。いつかまた空腹に耐えかねる日が来たら美味しく食べられてあげるから。だから…共にいよう?」
「…捨てないでくれるの?」
「狭霧に殺されて、永遠で唯一人のヒトになりたかったけど。こういうのも悪くない結末かも、ね」
ふいに真理亜は視線を下に落とした。テーブルの上に置かれたホルダー。
手を伸ばしてナイフを引き抜いた。
「ま、真理亜?」
何をする気なのか理解も予想も出来ずに狼狽する狭霧に向かってニッコリ笑って真理亜はナイフの刃先に小指の腹を押し当てる。
「痛っ」
「な、何をっ」
赤い線がすでに他人の血を吸って汚れていたナイフを伝っていく。
真理亜は口紅を塗るように、自らの血を唇に乗せるように塗った。
「でも、とりあえず約束は更新しとくね」
「…更新?」
呟く間もあらばこそ。
次の瞬間、狭霧の意識は真っ白になった。
唇に触れる未知の感触。そして、唇を割って潜り込む血の味。
ぬるっとした何かが歯を隙間を縫って舌に絡まる。
「んっ…」
「ぷはっ」
数秒か。数分か。もはや時間の判別はつかないけども。
確かに言えるのは狭霧の脳内時間は完全にその瞬間に停止していた。
「んー、んんーーー、んんんんんんー!!!!」
指差したまま後ずさり、唇を押さえて声にならない絶叫を上げる狭霧。
かたやあっけらかんとした表情で、まるでビールの一気のみをした後のように口を拭って真理亜は宣言した。
「とりあえず、最初で最後の約束はもらっておくね。殺されるんじゃなくて、キスだけどね。あ、狭霧。あたしは狭霧の最後の人なんだから、もうこれから一生、他のヒトとキスしちゃだめだよ」
「んんんっ、んー、んんんーー、んっんんー」
口を押さえたままなので答えになっていない。
「そーか、そーか。そんなに嬉しかったの」
「んーーーーーーーー!!!!!」
半分涙目の狭霧はまったく日本語の反論が出来ていなかった。
「あっはっはっは、狭霧、顔真っ赤っかだよぉっ!!」
「殺すっ、やっぱり殺す!! 今すぐキッパリスッパリ後腐れなく殺すっ!!」
「へへへっ、やーだよぉ」
羽交い締めにしようとする狭霧に抵抗しながら真理亜が囁いた。
「あたしをあげる。血も肉も骨も…カラダとコロロ、みんな狭霧にあげる。だから、あたしを求めていて。あたしを特別なヒトにして。あたしの特別なヒトでいて」
「………うん」
まるで真理亜を縛る鎖のように背後から彼女を抱きしめて、耳元で溜息のような返事を返した。
「ははは、はははは……、あっはははははは……」
すれ違うヒト、追い抜いていくヒト。アルコールで顔を真っ赤にしたサラリーマンさえも顔色を変え狂人を見る目で離れていく。
定まらぬ視線。
服に染み付いた返り血。
止まらぬ笑い声。
夜中で人通りも少なくなったとはいえ、大型アーケード街をふらふらと足取り怪しく歩く彼の姿はあまりにも異様だった。
夜の闇と街の灯のコントラストが生み出した幻想のようにそれは現実味がなく、なのにその危険な気配だけはちりちりと見る人の肌を焦がしていく。
誰もが思った。
さっさと警察に捕まってしまえ、と。
遠からずそうなるはずだった。
ちょっとした喧嘩であっても、いつもなら誰かが呼んだ警官によって当事者達は交番に押し込まれ、延々と説教を食らうはめになる。
…だが、何故か今日この夜に限っては来ない。
いつまでたっても。
遠目で彼を見学していた何人かの野次馬は首を傾げた。
なぜ、警官は来ないのだろうと。
恐らく、それに答える事の出来る人間は、その彼本人くらいだろう。
『だって、誰も警察を呼ばなかったからさ』
こともなげに、彼。筒井はそう答えるだろう。
彼を見る誰もが、誰かが電話するだろう。誰かが呼びにいくだろう。
そう期待するだけで、誰一人行動を起こさなかったなどと、誰が思うだろう。
だが、その彼自身すらも無防備な自分をさらけ出しているのは、必然となる偶然に守られた自分を信じている訳でなく、ただ自分を失っているだけだ。
「はははっ、はははははははっ、…してやるっ」
まるで回りの視線に気付かないかのように、彼は叫ぶ。
「はははははははっ、殺してやるっ、ころしてころころココロコロ、コロシテやる、コロスころす殺す殺すっ、あは、あははははは、はははははははははははははは」
壊れたレコーダーを再生しているかのように、ろれつの回らないまま彼は叫ぶ。
「誰が届かないって。キミに言われたくないよ、同じだと信じていたのに。許さない許さないからね。もう、君がどれだけ謝っても後悔しても許さない。きっと、殺してやるから」
捻れた笑い声がアーケード街の天井を跳ね返り、舗装された地面に呪いのように吸い込まれていく。
そこにいるのは紛れもなく、狂気の中の住人。
自らが生み出した孤独に蝕まれ、自身も気付かないまま己が心を刃で斬りつけた愚か者。
故に同じではなかった。
救いを見出し孤独を無くした彼女と、手を差し出したつもりでしがみつこうとした手を振り払われた彼とでは。
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