欠落の代償−33page






 誰かが呼んでいる。
 狭霧はまどろみながら、もう少し寝かせてと頼む。
 ゆさゆさゆさ。
 もっと寝ていたいのに、起こそうとする手は休まずに体を揺らす。

「…なによ、まだ早いじゃない」

 薄目で時計を確認して目を閉じる。
 そして、次の瞬間、体が硬直する。
 違和感。
 いつも、狭霧を起こすのは目覚ましの電子音のはずなのに。

「もうっ。仕方ないなぁ。こうなったら、必殺、眠り姫作戦を」
「やめっ!!!」

 危機感から跳ね起き、間一髪で悪魔の口付けから難を逃れる。

「おしいっ。もうちょっとで」
「真理亜…あんたは…」

 肩で息をしながら時計を確認する。まだ5時を過ぎたところだ。
 当然、午前の。

「何かまだ早いとかそういったレベルですらないんだけど?」
「でも、そろそろ起きないと家に帰ってから学校にいくのが間に合わないの」
「…誰が?」
「もちろん、あたし」
「………」
「………」
「そこに私を起こす必然性は?」
「起きてくれないといってらっしゃいのキスが出来ない」

 神速の速さで投げられた枕は真理亜を掠めて壁に激突する。
 恐らくは狭霧の次の行動を予測していたのであろうが、枕をかわしたのはなかなかの反射神経だ。

「馬鹿な事言ってないでさっさと帰る」
「ぶーぶー」
「まったく」

 諦めて、乱れた布団をキチンと畳んでカーディガンに袖を通す。

「ほら、忘れ物はない?」
「行ってらっしゃいのキス」

 結構痛い音が部屋に響いた。

「ぶつわよ?」
「いたたたっ、もうぶってるじゃないぃ」

 涙目で頭を押さえながら、キッチンを抜けて玄関に出る。

「あ、そうだ」
「ん? なに?」
「これなんだけど」

 真理亜が手に持って指差しているものを見て狭霧は頭の中が真っ白になった。
 狭霧のナイフ。”焼けた殺人鬼”が持っていたもののレプリカ。
 何故それを真理亜が持っている?
 答えは簡単だ。
 彼女が持ち出したからだ。
 狭霧が愕然としたのは、いまのいままでその事に気付かなかった事。
 そして、もう一つ。
 それが真理亜の手に収まっている事に何の感情も抱いていない事だ。

「これ、預かっておくね」
「預かる?」
「そ」
「いつまで?」
「狭霧が…あたしを殺したくなるまで」
「…そう」
「それとも…まだ必要?」

 首を傾げるように頭を傾け、下から覗き込むように見る真理亜。
 狭霧はホルダーに収まったナイフを持つ真理亜の手を包みこんで、彼女の胸へと押し込んだ。

「ううん、真理亜が持っていて」
「うん、ちゃんと大事にするね」

 抱きかかえるように両手で持って、彼女は玄関から出た。

「ちょっと、ちゃんと鞄に入れてよ。見つかって取り上げられたなんて言わないでよね」
「大丈夫だって」

 遠ざかりながらぶんぶんとそれを持ったまま手を振る真理亜を見て、頭を抱える。
 まぁ、まだ暗いし人も少ないから誰にも見られていないだろう、と自分を納得させる。
 願わくば、人が増える時間になる前に鞄にしまってくれますように。
 祈りながら玄関を閉めるとふいに眠気が襲ってきた。
 時計を見るとまだまだ時間に余裕がある。

「もう一眠りしよう」

 部屋に戻った狭霧はカーディガンを脱いで布団に潜り込んだ。
 次に目を覚ませば学校に行って、また真理亜と顔を会わせて…。
 そんないつも通りの日常なのに、なぜかこの時だけはほのかにそれが幸せだと思えた。
 こんな気分になるのならと、眠りに薄れゆく意識の中でもっと早くに真理亜に告白していれば良かったと考えていたいた。
 まだ、この時は。





 なんだろう、この感じは。
 駅の地下構内を歩きながら、真理亜は何か奇妙な予感に首を傾げていた。
 時間があまりに早いせいで構内に人影はまばらだ。
 並ぶ店のシャッターもほとんどが閉まっているか、あって半開きだ。
 おかげで、歩きながらでも思う存分物思いに耽る事が出来る。
 これまでの事。
 これからの事。
 全ては狭霧の事だけで占められている。
 昨日、狭霧に何があったのかは知らない。
 興味もない。
 今、確実に狭霧は真理亜と共にあるから。
 脇に当たる固い感触は狭霧より預かったナイフ。
 それが真理亜の心を支えている。
 こんなものを人に見られたら大騒ぎになるはずなので上着で隠しているが。
 …そんな心配は必要ないくらい人がいない。
 おかしい。
 やはりおかしい。

「こういった所って、普通は朝早いよね?」

 とうとう足を止めてしまった。
 もしかして、何か大きな事故でもあってこの先が通行止めになっているとか…。
 そんな事、ありえるはずもないのにそんな事を考えてしまう。

「誰も…いない?」

 ちょっと前までまばらだった人影がいまや完全に途切れてしまった。
 少し先に見える改札にも、半開きのシャッターの向こうに見える喫茶店にも、外へと通じる階段付近にもいない。
 少し、既視感がある。
 いつだったか。
 どこだったか。

「えっと」

 記憶を探る。
 そうだ。
 それは3年前。
 狭霧の後をつけたあの夜。
 同じように異様に人の気配がなかった。

「やぁ、清里さん」

 目の前に狼がいる。
 ちょうど3年前もそうだった。
 こんな現実から切り離されたような世界の中で真理亜は狼と出会った。
 そして、今もまた。
 ただ、違う。
 彼は彼女の求めた狼ではない。

「何か…用かな?」

 喉が乾く。
 足が動かない。
 地面に張り付いたように。
 脳が悟っている。
 無駄だと。
 特別な人間を前にしては、凡人はただ立ち尽くす事しか出来ないという事を真理亜は良く知っている。
 だからこそ、狭霧という特別を求めたのに。

「ねぇ、筒井君」

 ようやく手に入れたのに。
 やっと手に入れたのに。
 結局、清里真理亜という人間には特別とは手にあまるモノだったのか?
 だって、彼がいて周りに誰もいないという事は…。

「知ってた? あたし、あなたの事が大っきらいだよ。本当は」
「…奇遇だね。僕もそうだよ」
「ひょっとしたら、筒井君に触発されて狭霧が私を殺せる位になるかなぁなんて、ちょっと考えちゃったりもしたけど。だけど、それって筒井君が狭霧を変えてしまうって事だよねぇ。だから、やっぱりいらいないよ、筒井君」
「ただの人間のくせになぜ当たり前に彼女のそばにいるのさ。いらないのは君だよ、清里さん。君さえいなければ、きっと彼女は僕の手を取った」
「違うよ、筒井君。狭霧はあなたの手はとらない。だって、あたしが狭霧と出会わないなんてあり得なかったんだもの。狭霧が言ってたよ、自分には偶然が必然になる時間があるんだって。きっと私が狭霧と出会ったのも必然になった偶然なんだよ」
「そんな事は…ありえない。なぜなら、僕こそが彼女の必然だから。彼女と同じ僕が出会う事に必然はあったんだ。だから彼女は僕の手を…」
「手を取らなかった」

 びくっと筒井の体が震えた。

「言ったよね。あたしが狭霧と出会う事が必然だって。もし筒井君が本当の必然なら、なぜ狭霧は私を選んだの?」

 筒井の返答はない。
 ただ、どんよりと濁った目で真理亜にゆらりと近づいてくる。

「やっぱり。筒井君はいらないんだよ。消えるのは…」
「君だよ」

 冗談のようにあっさりと、血に汚れきった刃が肋骨の隙間から潜り込んだ。
 喉の奥から熱い液体がせり上がって来る。
 痛いという自覚はない。
 ただ、焼けるような熱さと、焦燥のような感情が体を駆けめぐった。

「うそ…」

 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ。
 死んでしまう。
 刺さった場所は肺? それとも心臓? それとも…。
 どちらにしても、タスカラナイ。

「なんだ、簡単だったんじゃないか。嶺本さんもバカだなぁ。僕があの人に届かないなんてそんな事あるはずないのに」

 力が抜けて自分で立っていられなくなった真理亜を抱いて支えながら、筒井はここにいない彼女に向かって囁く。

「どう? 後悔したでしょ? でももう遅いからね。僕は――」
「人殺し…だよね。ただの」

 血を吐きながら、不明瞭な声で真理亜は言った。

「とっとと死になよ」

 筒井は真理亜の体を突き飛ばす。
 突き飛ばされた真理亜はシャッターにたたきつけられ、そのままその場にくずおれる。
 金属製のシャッターは大きな音を響かせたが、それでもその音を聞きつけて来る人間はどこにもいない。

「君がいなくなれば、嶺本さんも僕の手をとると思ってたけど。でも、よく考えたらそんな必要なかったんだ。君を殺してしまえば、嶺本さんなんて必要ない。僕だけがあの人に辿り着くんだ」

 熱に浮かされたような筒井の言葉は真理亜にはもう届いていなかった。

『約束…だったのに、な』

 死の影がせまっている真理亜の脳裏に今浮かんでいるのはそれだけ。
 最初で最後の犠牲者となるはずだった。

『ごめん、ね。食べられてあげられなくて』

 真理亜のまぶたがゆっくりと閉じられた。
 筒井は真理亜に肩を貸すようにその体を起こしたが、もう何の反応も返さない。ただ、微かに唇が何かを呟いて…止まった。

「さようなら、僕の初めての人」

 低い笑いをもらしながら、彼はその耳元にそっと囁いた。






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