欠落の代償−34page
変だ。
コツコツコツと苛立たしげに机を叩く。
それがまた自分の神経をささくれだたせるのは分っているが、それでも体が心の歪みに反応を返してしまう。
狭霧の視線はずっと教室のある一点を見詰めている。
真理亜の席だ。
そこの主は一向に現れる気配がない。すでに1限目の授業は終了しているのにだ。
「帰ってそのまま寝てしまった、とか?」
呟いてから、それは有り得ないと自分で否定する。
狭霧ならありえるが、真理亜は一応優等生に分類されるような人間だ。恐らく帰ってすぐに着替えて家を出たはずだ。
ならば、途中で何かあったのか?
電車が人身事故で止まったとかなら、せいぜい授業に遅刻する程度ですむだろう。
何も学校へ来るルートは一本しかないわけじゃない。
いったい、何をしているのだろうか。
「携帯…買おうかな」
もっていてもどうせ使わないだろうと、今まで興味が持てなかったのだが。
電話でも良い。
声を聞きたい。
聞いて安心したい。
昨日、改めて真理亜という存在を再認識したせいで少しの間、声を聞かないだけでこんなに不安になる。
「なんか、今までの悩みのベクトルがそのまま別の方向へ傾いたみたい」
頭を振って席から立つ。
次の授業のチャイムが鳴るまでもう少し時間があるはず。
少し外の空気を吸って来よう。もしかしたら、登校してきた真理亜とばったり会うかも知れないし。
教室を出て階段を下りて、校舎一階まで降りたときに足を止める。
階段裏。
そこは自分で作った自分自身をを閉じこめる檻。
学校という羊の群の中にあって、自分をそこへ閉じこめた。
もう、そこは必要ない。
自分は羊に突き立てる牙を手放したのだから。
背を向けて昇降口から外へ出ようとして、しかし足が動かなかった。
誰かがいた。
階段裏の影に隠れただれかが自分を見ている。
誰か?
決まっている。
「何か用?」
「いや…別に」
哀れなもう一人の狼。
自分の牙の脆さを知らぬ愚か者。
何か仕掛けてくるかと警戒するが、とてもそんな気配はない。
ただ、どこか変な感じはした。
今までの筒井とは違うような…。
いや、昨日はあんな事があったのだ。
そのせいだろう。
そう納得して、興味なさげに視線を切り背を向け…。
そして、ぎょっと目を見開いてもう一度筒井を見る。
「どうしたの? 嶺本さん」
ない?
筒井の内にあるヒビ、欠落が形を変えた。
イメージは砕けたガラスの塊。どこを触れても傷つける。
そんな馬鹿な。
見たことのない欠落の形。尋常ではない急激な変化。
「…そっか、あんた。殺したのね」
恐らくは、昨日殺すのを狭霧が止めたあの少年に止めを刺したのだろう。
この変化はそのせいだろう。
「どう感想は? あの人に届いた?」
無感動に狭霧は言った。
それは明らかに皮肉だった。
筒井があの人に届かないと、そう確信していたから。
だが。
「まだ、届きそうにない。けど…」
笑っている。
筒井はいつも笑っている。
だが、今日の笑いはいつもの張り付いたものではない。
本当に心から笑っている。
夢と希望に満ちあふれた、そんな笑みだ。
「もう少し、あとほんの少しだよ。後は時間が解決してくれる」
臓物を煮込んだ夢と、血を塗りたくった希望と、そんなものを自分の魂に詰め込んだ存在。
…目の前にいるのは誰?
狭霧は混乱した。
違う。
どこか違う。
こんなはずはない。
いま目の前にいるのは明らかに本物だ。
間違いなくただの殺人鬼などではない。
”焼けた殺人鬼”に手が届きつつある人間だ。
「な…んで」
「初めてって大切なんだよね。昨日、早まらなくて良かったよ。もしも、あんな奴を殺していたら本当にただの殺人鬼で終わっていただろうね」
あんな奴…昨日の少年の事だろうか?
ならば、筒井はいったい誰を殺したのだろう?
そして、狭霧の視線が釘付けになる。
乾ききった血がこびり付いたナイフに。
それは筒井の手にあった。
彼も同じものを持っている事は知っている。
だが、狭霧には分かる。
それが、彼の物ではない事が。
「どうしてそれを。あんたが」
「快感っていうのはああいうものを言うんだね、きっと。僕はまだSEXなんてした事ないけどこれを彼女に突き立てた瞬間と比べたら、なんでもない事のような気がする。頭の中が真っ白になるんだ。今まで人を切った事、突いた事なんていくらでもあるのに、殺す事に比べたら傷つけるだけで終わるなんて本当にお遊びみたいなものさ」
「…もう一度聞くわ。なぜ、それを、あんたが、持っている?」
「ああ、これ? これはね、彼女が持ってたんだ。どうしてこれを彼女が持っているのか不思議だったけどね。だって、これは……」
蒼白な表情の狭霧を愉快そうに見て筒井は言った。
「嶺本さんの持ち物だったはずだし」
「だから、なんでそれをあんたが持っているのかって聞いているのっ!!」
「貰ったのさ」
「貰った?」
「そう、貰ったんだ。彼女から。もう要らないだろうから」
「…彼女? ………彼女って」
「やだなぁ。とぼけないでよ、嶺本さん。これを彼女に渡したのは嶺本さんでしょ?」
「…うそ。うそよ」
「ああ、そうそう。彼女が死ぬ前に言ってた。たぶんキミへの言葉だろうから伝えてあげる」
『約束守れなくてゴメンね』
続けて、筒井は何かを言ったがもはや狭霧の耳には届いていなかった。
その場を駆けだしていたのだから。
残された筒井は何事も無かったかのように階段裏から出て、廊下の曲がり角に消える寸前の狭霧の背中を見送った。
「馬鹿だね、僕の手を振り払うからさ。おとなしく僕の手をとっていれば獲物の横取りなんてやらなかったのにさ」
どうして、そこへ真っ直ぐたどりつけたのか。
明確な説明なんて誰にも出来ない。
本人にすらも。
学校を飛び出し、周りの奇異の視線も気にせず。道端に止めてあった自転車を盗み、ただ、真っ直ぐに学校近くにある駅の一つに向かう。
駅の前で自転車を乗り捨てて、中へと入る。
駅構内は非常に混雑していた。
普段からこんなに人がいるのか?
それは狭霧には分からない。
狭霧には普段あまり関わりのある駅ではないのだから。
通学には別の駅を利用している。
だが…狭霧のアパートから真理亜の家へはこの駅で乗り換えるのが近道なのだ。
ただ、それだけ。
理由としてはそれだけ。
人の間をすりぬけ、あるいは押しのけて進んでいく。
予感のする方へ。
そして、それは確実に人の密度の多い方へ進んでいた。
人の間を通り抜ける間に、耳にする言葉が次々と狭霧の胸を刺し貫いていく。
「おいおい、殺人だってさ」
「なんだよ、これ。通れるのか?」
「マジマジ? 映画の撮影とかじゃないよな?」
「吐きそう…。俺モロ見ちゃった。いやマジで」
「もったいないなぁ、中学か高校かわかんないけど、女の子だろ? 殺すくらいならオレにくれよ」
「いま流行の通り魔? ちょっとシャレになんないわよ」
「トイレの個室に放り込まれてたんだってな。つか、だれか今まで気付かなかったのかよ。殺されたのメッチャ朝なんだろ?」
立ち入り禁止と書かれたテープで仕切られ、そこで野次馬達とその先の空間が区別されていた。
中では警察らしき人々が何やら急がしそうに作業をしている。
ふと、そのなかの数人が野次馬で埋め尽くされた空間の一部を切り開こうとしている。
…ああ、そうか。遺体を運ぶのか。
凍り付いた思考は冷静にそんな結論を出す。
そして、辛うじて人二人分が並んで通れる位の道が出来ると、狭霧の前を白い布で覆われた担架が横切っていく。
悲鳴が周りからあがった。
担架から右手がこぼれたのだ。あまりにも命を感じさせないそれを見た女性が悲鳴を上げたのだろう。
慌てて、担架に付き添っていた警官がこぼれた手をタンカに乗せて布の中に押し込む。
「………」
声が出ない。
ストンと膝が崩れて、まるでその場に正座するように倒れる。
周りの人間が驚いて、声をかけ肩を揺するが、今の狭霧には何にも届かない。
真理亜だ。
あんな布を被せられていても、右手しか見えなくても。
それでも分かる。
あれは真理亜だ。
真理亜真理亜真理亜。
コロサレタのは真理亜。
そんな馬鹿な話があるものか。
真理亜を殺すのは私のはずだ。
…いや、違う。
違う事を昨日認識したはずだ。
自分には真理亜は殺せないと。
だけど、今目を前を通った遺体は真理亜だ。
なぜ、自分が殺していないのに真理亜が死んでいる?
「私のせいだ…」
事件のショックで気分が悪くなったと思われたのか、警官が狭霧の体をかつぐように野次馬の輪から引き離していく。
なすがままに運ばれながら、誰にも聞こえぬように再度呟いた。
「私が…なかったせいだ………」
約束だったのに。
今更、覆したから。
だからこうなったのだ。
彼女は本当は望んでいたんじゃないのか?
ただ、好意からそれを赦してくれただけじゃないのか?
悔やんでも、もう遅い。
「私が殺さなかったせいだ」
最初で最後の約束。
最初に殺すはずだった彼女はもう死んでいる。
最後に殺すはずだった彼女はもうどこにもいない。
約束は永遠に果たされる事はない。
「ごめん、真理亜。ごめんなさい」
ただ、後悔の念を込めて、優しい羊に向けて謝罪の言葉を繰り返した。
© 2009 覚書(赤砂多菜) All right reserved