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欠落の代償−35page






 いつだって彼女はそばにいた。
 これまでも、そしてこれからもずっと一緒のはずだった。
 自分の持つ狂気を含めて何もかも受け止めてくれた彼女はもういない。
 狭霧はアパートの自分の部屋でもう何日も毛布にくるまりながら時間を過ごしていた。
 壊れていく。
 自分が壊れていく。
 生きながら腐っていくのを感じながら、何をするでなくただ横たわっているだけで。
 もう何度電話が鳴ったのだろう。
 恐らくは学校からだろう。
 それとも、警察だろうか?
 事情徴収で何を答えたのか頭にない。
 …そんな事はもういい。
 何の意味もない。
 もう、どこにも真理亜はいないのだ。

「何故、殺さなかったの?」

 殺す事を彼女は赦していたのに。
 最初で最後の犠牲者。
 それが約束だったのに。
 自分が殺さなければ、筒井なんかに殺されずに済んだのに。
 …筒井、なんかに?

「でも、あいつは…」

 真理亜が死んだあの日に会ったのが最後だ。
 そして、その時見た欠落。
 欠けていない人間とは違い、ただ欠けているだけの人間とも違う。
 それはまるで”焼けた殺人鬼”のように。

「違う、違う違う違うっ! そんなはずないっ」

 ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
 認めてしまえば惨めだったから。
 真理亜を奪われ、あまつさえ殺せないという壁をも越えてしまった筒井。そして、恐らくはただの殺人鬼では終わらないだろう。
 ”焼けた殺人鬼”のように、特別な存在へと自分を昇華させて。
 自分はどうだ?
 結局の所、殺しても良いと言っていた彼女を殺せず、”焼けた殺人鬼”への道を放棄した。
 もしかして…これが…最良の結末だったのか?
 真理亜は特別になる事を願っていた。特別な存在に。
 そして、特別な存在になりつつある筒井の最初の犠牲者となった。

「特別か…」

 真理亜が望んだもの。
 真理亜が狭霧に望んだもの。

「もう間に合わないけど」

 届かないと分かっても、それでもずっと手を伸ばし続けていた。
 ただ、それが永遠となってしまっただけ。
 気付けば視線が一点で止まっていた。
 真理亜から貰った時計。
 それは偶然だったのか、必然だったのか。
 真理亜が死んだあの日から針はずっと同じ場所を指している。
 恐らくは電池切れだったのだろうが、針を動かす力が足りないだけでまだ微かに針の先が痙攣するかのように動いている。
 狭霧は身を起こして時計を手に取った。そして、背面のパネルを外して電池を抜き取る。
 果たして、時計の針はその微かな動きすら止めて沈黙する。

「もう、いいから。真理亜。眠って?」

 パネルを外したまま文字盤を下にして、時計を寝かせる。
 シャッとカーテンを開き閉めきった窓を空けると外はもう真夜中だった。
 ずっと閉じこもっていたので外を見るまで今が昼か夜かすら分からなかった。
 夜風が頬を掠めて通り過ぎて涙の跡を乾かしていく。
 電話のベルが鳴った。時間が時間だ。学校でも警察でもないだろう。
 コール5回目。コール6回目。コール7回目。コール8回…
 鳴り止む気配はまるでない。
 狭霧は窓を閉めるとゆっくりと受話器を上げた。コールはもう20回を越えている。

『やあ、嶺本さん』

 受話器を取る前から分かっていた。
 窓の外の世界は奴の悪意に満ちていたから。
 受話器の向こう側の相手は一方的に喋った。
 狭霧の返事がないのもおかまいなしに。

『じゃ、待ってるよ』

 最後まで一方的に告げて、電話は切れた。
 残ったのは受話器から洩れる途切れた通話音と、カラカラに乾ききった狭霧という器に少しずつ少しずつ注がれつつあるなにか。
 放り投げるように受話器を戻して、給湯器に火を入れる。
 ずっと風呂に入っていなかったのだ。さすがにこれでは外に出れない。
 他人の目も、筒井の目もどうでも良かったが、これからもしかしたら真理亜と同じところに行くのかも知れない。
 だったら、汚い格好のままでは会えない。
 手早く服を脱いで彼女は浴室へ入った。






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