欠落の代償−39page






 狭霧は一度だけ足を止めた。
 振り返ると堤防の向こう側が微かに明るい。

「………」

 贈る言葉も吐き捨てる言葉もない。
 ただ、どうでもいいような視線を流して、そしてまた背を向けた。
 あの場で死んでいた名前も知らない少年達の血と、自分自身の血で汚れた肌と服。
 通り過ぎる人達は奇異の視線を向けるが誰も呼び止めない。
 たぶん、巡回中の警官と偶然に遭遇して呼び止められるという事もないのだろう。
 分かってしまった。
 自分があの人の位置に辿りついてしまった事に。
 何故ならば。

「キレイ、ね」

 無感動な言葉。
 ただ、口にしただけのように淡々と。
 胸元に目を向ければ、はっきりと見て取れた。
 欠落。
 それは焼けた殺人鬼と同じモノではないが、同じくらい鋭利で美しい欠落。
 あれほど望んでいた自らの欠落が見て取れる。
 だけど、心は寒々しく凍りついている。

『…俺的にはあまりお勧めしないけどな』

 あの人が残した言葉。
 彼は知っていたのか、こうなる事を。
 ”焼けた殺人鬼”の欠落と、狭霧の欠落。
 欠けたものは同じだったんだろう。
 彼等にとって掛け替えのない人間。

『それをお前が欠落と言うのなら、もう埋まる事はないだろうな』

 その通りだ。
 彼女みたいな人とはもう二度と巡り会えないだろうから。
 でも、約束がある。
 私が殺すと、そう約束したのだ。
 だから、殺さないと。
 どこかにいるんだ。
 いなくても捜すんだ。
 殺したくて、そして殺せない人間を。
 どうやって捜す?
 簡単だ。
 殺せばいい。
 殺して殺して殺して、ひたすら殺して。
 殺せない人を殺すまでずっとずっと殺し続けるんだ。

「まってて、真理亜。ちゃんと殺してあげるから」

 虚空にむかって、狭霧にだけ見える真理亜に彼女は微笑みを向けながら語りかけた。



 この夜。

 ”焼けた殺人鬼”を継ぐモノが産声をあげた。





 茹だるような熱気。
 景色がぐにゃりと歪む。
 夏、暑い夏。
 暑さに対抗するように、セミの合唱が狭い神社の境内に鳴り響いている。

「日が高くなれば、まだまだ暑くなるわね。一応、まだ午前中なのに」

 気怠そうに狭霧は呟いた。
 暑い暑い暑い。暑くてナイフの刃にこびり付いた血が蒸発してしまいそうだ。
 殺したのはたったの二人。
 なのにこの吹き出すような汗はまるで冗談のようだ。

「ホント暑いね、真理亜」

 今はもうそばにいない大切な人の名を呼ぶ。
 それだけで、熱気が多少マシになった気がした。
 彼女を。
 彼女と同等の存在を探し続けてもう何年も過ぎて、それでもその名前が特別な事には変わりない。

「いくらなんでもこの二人がそうではないのに、ね」

 恐らくは観光に来ていた夫婦だったのだろう。
 容姿は明らかに日本人ではなく、死の間際に助けを呼んだ声は日本語ではなかった。
 その声の意味はほとんど理解出来なかったが、女性の方が最後に懇願していたと思われるそれだけは容易に推測出来た。

「逃げないの? 言葉が通じない?」

 栗色の髪をした4つの瞳。
 服装から性別が違う事は判断出来たが、顔のみわけがほとんど付かない程そっくりな少年と少女。
 恐らくは殺した夫婦の子供。
 容姿から見て双子としか思えない。
 彼等は自分達の両親が殺されたにしては、その表情に悲しみも恐怖も怒りもなかった。
 ただ、心底不思議そうに狭霧を見ていた。
 そして、狭霧もまた同じ様な表情をしていた。
 なぜ自分はその子供達を殺さなかったのだろう。
 死んだ夫婦の懇願は狭霧の心には届いていなかった。
 にも関わらずなぜ殺せないのか?
 もしかして、と一瞬だけ期待する。
 探し求めていたものが見つかったのか?

「あの…」

 高い声が耳に届いた。
 明らかに狭霧に向けた言葉。
 喋ったのは双子の内の少年の方、少女の方はその背に隠れている。だが、それは少女が怯えている訳ではなく、ただ人見知りしているだけのように思える。

「日本語、分かるの?」
「はい、少し。父さん、日本語の先生。だから」
「ふーん」

 恐らく、今際の際には母国の言葉しか思い浮かばなかったのだろう。

「聞いて、いい。ですか?」
「なに?」
「なんでそんな音がするんですか?」

 狭霧は眉を潜めた。
 音?
 何の事?

「音って?」
「凄くキレイな音。僕も姉さんも今まで聞いた事、ないです。人を殺せばそんな音が鳴るものなんですか?」

 …もしかして。
 昔の記憶が脳裏に張り付く。

『凄く…キレイな、欠落』

「そんなにキレイな音なの?」
「はい」

 素直に答える少年と同意するように頷く少女。

『それって珍しいのかな?』

 あの時と同じ事が繰り返される?

「それは珍しい事なの?」
「音がする人、何人もいました。だけど、こんなにキレイな音、初めてです」

 とととっ、と小走りに双子が狭霧の方へと寄って来た。そして両親の返り血に汚れた狭霧の胸へと頭を押し当てる。
 唐突の事だったので狭霧はナイフを持ったまま、押し返す事も出来ずに両手をもてあましていた。

「分かってる? 私はあなた達の両親を殺したのよ」
「はい。あなた、今日本で有名な殺人鬼ですね。僕は父さんから聞きました」
「憎くはないの?」
「だって音が聞こえないから」

 答えたのは少年ではなく少女だった。
 返り血に汚れるにもかまわず頭をこすりつけてくる。

「私達、この後。病院いくはず、だった。私達は病気じゃないのに。ただ、聞こえるだけなのに」
「結局、最後までこの人達、僕達を理解、出来なかった。だから、仕方ない。理解出来ないならいつか別れる、なるから」

 今更ながらに気付く。
 この子達の欠落に。
 だからこそ、殺さなかったのだ。

「それよりも、どうすればいい?」

 血に汚れた顔と髪のまま、無垢な笑顔のままで双子は狭霧に問いかけた。

「あなたと同じ、なる。そしたら、そんな音が鳴るの?」
「さぁ? 私にはその音が聞こえないから分からないわ。…でも、その可能性はあるんじゃない?」

 双子の顔がパッと電気がついたように一層明るくなった。

「じゃぁ、なる」
「私は」
「僕は」
「あなたと同じになる」

 双子を見下ろして、狭霧は嘆息した。
 あるいは今の気持ちは、かつてあの人が味わった感情なのか。
 恐らくはそうなのだろうと思いながら言葉を紡いだ。

「…私的にはあまりお勧めしないけどね」

 ひょっとしたら、これが自分の後継に贈る言葉なのかなと思いながら…


−完−






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