欠落の代償−38page
全ては決まっていたのか、あの日に。
あの人への憧れも、傷つける事は出来ても殺す事が出来ない不可解な衝動も、殺意に連動する必然になる偶然も。
嶺本狭霧に出会ったのも、清里真理亜を殺したのも。
みんなみんな。何もかも。組み込まれた必然となる偶然。
それはたった一つに起因していたのだ。
「キミだったんだ」
嶺本狭霧を焼けた殺人鬼へと推す。
全てはそれだけの為に、彼女自身が起こした偶然にして必然の出来事。
「げはっ!」
頭から何か冷たいものをかけられて筒井は身を縮こませた。
臭いから何か分かった。
ガソリンだ。
先程、発火しなかったポリタンクに残っていたものをかけられたのだ。
殺される。
その事実に筒井は…歓喜していた。
何を恐れる事がある?
確かに自分はあの人には届かなかった。
それは確かに残念だったが、そのかわりに別の栄誉が与えられたじゃないか。
そう、嶺本狭霧の最初の人に。
”焼けた殺人鬼”を継ぐ者の最初の犠牲者に。
「あははははははははっ、ははははははははっ!!」
熱に浮かされたように笑う筒井にかまわずに、狭霧はしゃがみこんで先程筒井にぶつけたライターを拾い上げる。
狭霧も下半身がガソリンで濡れている。
ここで火をつけると自分も丸焼けになる可能性があるはずだ。
だが、筒井はそんな事起きる訳がない事を知っていた。
あり得ない。
そんな事は。
殺すという行為において、全ての偶然は彼女に味方する。
それが彼女。
いや彼等、特別な存在に与えられた特権なのだから。
闇に火が灯った。
それに呼応して筒井の声が大きく、高く響いた。
ライターが狭霧の手を離れた。
炎が尾を引いて落下していく。
もうすぐだ。
もうすぐだ。
もうすぐ、特別な存在に殺された最初の犠牲者という、そんな特別な位置に手が届く。
固い音が鳴った。
固く小さい何かがぶつかった音だ。
「…え?」
筒井が呆然と呟いた。
火が消えたのだ。
何故?
何故、そんな事が起こりうる?
彼女も違ったのか?
いや、違う。
彼女は本物なのだ。
そのはずだ。
だから、彼女が殺そうとする限り、偶然は必然に…。
彼女が、殺そうと、する、限り。
殺そうと…していなかった?
「馬鹿ね」
言い残して狭霧は背を向けた。
「…待て」
そのまま筒井を残して去ろうとする狭霧に向かって呼び止めるが、彼女は止まらない。
「待てよ、待て待て待てっ!!!」
叫ぶ。
それでも止まらない。
「ふざけるなっ!!! まさかこの後に及んでまだあの人への道を捨てるとか言う気かいっ!!!!」
それでも、彼女は止まらない。
ただ、背を向けたまま、足を止めないまま、一つだけ言い残した。
「言ったよね」
彼女は振り向かなかった。
最後まで。
まるで何の興味も持てない無価値な存在へと言い放つように。
「全てを奪うって」
そして、階段を上って。
「だからあんたには何一つ残さない。今の空虚なあんたにはお似合いよ」
そして、堤防の向こうへと消えた。
呆然と、ただ呆然とそれを筒井は眺めていた。
言葉もない。
怒りも失望も浮かばない。
彼女の言った通りに何もかも奪われた。
何一つ残っていない。
ふと、パトカーのサイレンが聞こえた気がした。
偶々近くを通っているだけなのか。
それとも、誰かがさっきの狭霧とのやりとりか、その前の殺戮を見ていたのか。
筒井には判断しようがなかったが、もしも後者ならいくつもの屍に囲まれた状況で言い訳など出来ないだろう。
捕まる?
警察に?
そんな無様な話があるか。
これがあの人を、”焼けた殺人鬼”を目指した人間の末路か?
だが、狭霧が言った。
全てを奪うと。
もし、彼女が言う全ての中に、これまで彼を守っていた偶然をも含んでいるとしたら、その無様な話が現実になるだろう。
「どうしよう、どうしよう、どうしよう、ドウシヨウ」
虚ろな目でそわそわと視線を彷徨わせる。
逃げるか?
どこへ?
当てもない。
金もない。
だいたい、この死体はどうする。
きっと指紋を始め証拠はいくらでも残っている。
偶然はもう守ってくれない。
どうすればいいんだ。
「あ…」
彷徨っていた視線が止まる。
地面に転がっていたライター。
ガソリンの水たまりに浸かっている。
ゆっくりとゆっくりと手を伸ばす。
そうだ。
何を慌てているんだろう。
簡単じゃないか。
なんて愚かなんだ。
捕まらないようにするのは簡単じゃないか。
消してしまえばいいんだ。
自分自身を。
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