欠落の代償−37page






 無造作に。斬るというよりは振り回すという表現が似合うだろう。
 どこまでも素人臭いナイフの軌跡。
 なのに、どう動いても顔を、喉を、胸を、脇腹を掠めていく。
 避けたつもりでも、まるで自分からナイフの刃に斬られにいっているのかと錯覚するほど、動く先に刃がいる。
 筒井に先読みしたつもりなどないのだろう。
 狭霧にも覚えがある。
 かつて、野良犬や野良猫を殺してまわっていた時、面白いように獲物は狭霧の思う通りに動いてくれた。
 獲物が逃げようとした方向と、無作為に振るった刃の方向が一致する。
 偶然。そして、それが必然。
 だけど、もし必然になる偶然が二つ存在したらどうなるのだろうか?
 考えた事もなかったが、狭霧は今身をもって知っている。

『マガイモノが弾かれる、か』

 結局、どちらかがニセモノなのだ。
 そして、この場合は誰も殺せていない狭霧という事になるのだろう。
 筒井は言った。辿り着くまでの道具なのだと。
 そうなのかも知れない。
 傷つける事は出来ても殺せない筒井に必要だったのが、人間以外しか殺せない狭霧だったのだとしたら。
 すでに完成されてしまった存在に刃向かうなどなんと空しい事か。
 筒井が己に足りない何かを持っていってしまったのなら、狭霧という人間は空っぽのはずだから。
 だが、

「マガイモノとか、そんな事はどうでもいいのよ」

 血が目にかかった。頬がざっくりと裂けている。
 真っ赤な視界に嫌な笑顔を捕らえて、それを串刺しにすべく手のドライバーを逆手に持ち直す。

「返してあの子を」

 固い音を立ててドライバーが宙を舞った。
 相手が動いた事。
 手に血がついていて滑った事。
 突き刺そうとした先が上着の金具だった事。
 全てが重なった結果は凶器を失ってしまったという事実。
 闇に紛れてドライバーがどこにいったのかもう見えない。

「あの子を殺していいのは私だけだったのよ」
「くだらない」

 目を突き破ろうとした手を筒井はあっさりと掴み捻りあげる。
 髪を掴まれ、無理矢理頭を下げられて、身を屈めた所に膝蹴りが鳩尾にめり込む。
 苦い味が口の中に広がった。

「あの子をっ」
「もういないさっ。しつこいなっ」

 筒井は一度狭霧を離してから、今度は勢いをつけて蹴り上げた。
 鉄橋のコンクリートの柱に叩きつけられて、くずおれる。

「あの子、あの子って。今キミの目の前に立っているのは僕なんだよ? 本当に気に入らないな。あの人に辿り着こうとしている僕の事よりもただの人間でしかない清里さんの事が重要だってのかい?」
「…当然…でしょ。あんたなんかに………価値はない…わよ」
「良く言うよ」

 柱に叩きつけられた時に頭を打ったのか、意識がまとまらない。
 だから、ある事実に気付くのが遅れた。
 脚が冷たいのだ。

「…え?」

 ぶつかった時に倒れたのか、横倒しになったポリタンク。
 そして、中の液体が地面に染みこみ狭霧の下半身を濡らしている。
 液体の正体は臭いからある程度の予想がついた。

「灯油? いや、ガソリン?」

 なぜ、そんなものがこんなところに。
 そして、思い至って筒井を睨み付ける。
 考えるまでもなかった。
 他にいるはずもない。

「せめてもの同胞としての情けだよ。死に方だけはあの人のようにしてあげる」

 闇に火が灯る。
 ライターに照らされた筒井を見て狭霧は思った。

『醜い』

 ああ、そうか。
 と、いまさらながらに気付いた。
 やっぱり、あの人とは違う。
 ”焼けた殺人鬼”とこいつとは違うのだと。
 あの人の持っていた鋭利な欠落に比べて、あれはなんだ?
 ただ、ひび割れたあげく砕け散っただけじゃないか。
 残ったのはただのガラクタ。
 届くはずがない。
 うかつに触れると傷つくだけのただのガラクタなのだから。

「じゃぁね、嶺本さん」

 ライターは筒井の手を離れた。
 それが落下する様はまるでスローモーションのようにゆっくりと目に映る。

「後の事は気にしなくていいよ。僕があの人の位置に立ち、あの人の先を行くから」

 こいつはただのガラクタ。
 …でも、そんな奴にすら自分は劣っていた。
 そして、ここで終わる、か。
 どうでもいい。もう何も残っていないのだから。
 せめて、自分の欠落の形がどんなものかだけでも知りたかったが…。
 もう終わり。
 もうこれで…。

「清里さんと向こうで仲良くしてなよ」

 清里…真理亜…。

「うわっ!!」

 風が吹いた。
 とてもとても強い風が。
 反射的に筒井は目を覆った。
 だが、すでにライターは手を離れている。
 自らの手に視界を阻まれながら、筒井は残念に思っていた。
 もちろん、発火の瞬間をこの目に納められなかったからだ。

 固い音が鳴った。
 固く小さい何かがぶつかった音だ。

 まだ目を覆ったままだった。
 筒井はまだ目を覆ったままだった。
 筒井幸太はまだ目を覆ったままだった。
 まだまだまだまだ…。
 どうして?
 どうして暗いままなんだ?
 ガソリンに引火したはずなのにどうしてこんなに静かなんだ?
 ゆっくりと、ゆっくりと、それはまるで恐れるように。
 筒井は覆った手を下ろした。

 目が合った。
 いる。
 そこにいた。

 本物が。

 本物の殺人鬼が。

 本物?

 本物は自分じゃないか?

 でも、だったら今、目の前に、いるのは、誰だ?

「どう…して?」

 問いかける彼を無視して、狭霧は立ち上がりながらライターを拾い上げる。
 火は…消えている。

「消えたんじゃない? 偶然」
「偶然?」
「そう、偶然」
「あはははは…。そうか、偶然か」
「ええ、偶然」

 一瞬、引きつった笑みを浮かべ、そして筒井は叫んだ。

「そんな訳あるかっ。そんな偶然あってたまるか。もう僕が殺すのを妨げるものはないんだ。どんな偶然も僕が殺す為に起きるんだっ。阻む為に起きる偶然なんてあってはならないんだ」
「それでも、起きた」
「これは何かの間違いだっ!」
「だったら、何度でも起きる間違いね」
「なんだとっ!!」
「何度でも起こすわ。何度でも」

 何度でも…起こす?
 ジリッと筒井は一歩後ずさった。
 今、目の前の彼女はなんと言った?

「筒井。あんたはあの人には為れない決して」

 狭霧が手を振った。
 その手から放たれた小さな礫が筒井の額を打った。
 小さく悲鳴を上げてよろめく。
 そのぶつけられた礫がライターだと気付いたのと、バランスを保つために一歩後ろに後ずさり、足に激痛が走るのは同時だった。

「ぎゃっ!!」

 目の前が真っ赤になる。
 視線を落とすと、その事実に対して受け入れる事は容易ではなかった。
 靴ごと足の裏から甲へと貫く細い何か。

「こ、こんな…」

 こんな偶然があるものか。
 ドライバーだ。
 先程、狭霧が落としたものだ。
 丁度くぼみに落ちて先端が上を向いていて、そこへ足を踏み降ろしたのだ。

「奪ってやる。あんたが私からあの子を…真理亜を奪ったように」

 まるで、そんな偶然が起きて当然であるかのように筒井の現状に狭霧は眉一つ動かさない。
 反対に、筒井の頭は混乱していた。
 こんなはずはない。
 こんなはずはない。
 こんなはずはないんだ。
 殺す為の行為において、全ての偶然は必然に変わる。
 それが、”あの焼けた殺人鬼”と、そしてその座に手を伸ばす自分に許された権利のはず。

「あんたはあの人には届かない。ここで私に全てを奪われるの」

 嶺本狭霧は道具ではなかったのか?
 自分をあの人の座へと届かせる為の踏み台ではなかったのか?
 これではまるで…。

「ふざけるな…」

 筒井は笑った。
 笑うしかなかった。
 笑うことを止められなかった。
 笑い飛ばしていなければ認めてしまいそうだったから。
 道具は嶺本狭霧ではなく、自分の方なのだと。
 清里真理亜も自分も、ただ嶺本狭霧という存在を推す、ただそれだけの為に在ったのだと。

「あ、う」

 唇が震えた。
 痛い痛い痛い。
 足が痛い。
 ドライバーが貫いた足が痛くて動かせない。
 かといって、足を引きずろうにもドライバーの取っ手部分がまだくぼみに嵌ったままだ。
 どうしようと、混乱する筒井の目に金属の反射光が映った。
 それはナイフ。
 だが、なぜ彼女がそんなものを持っている?
 元々彼女の物だったレプリカはすでに折れた。
 そして、この場にあるもう一つは筒井の手に…なかった。
 ライターをぶつけられた時に、落としたのだ。
 そして、それを拾われたのだ。

「無様ね」

 淡々と。
 嘲笑でもなく、侮蔑でもなく。
 ただ、あるがままを語るように彼女は言った。
 その瞳はまるでただの物を見るかのように。
 …いつか、どこかで見たその光。

『…そうか』

 物陰に隠れて、見ていた。
 人を物に変えた、あの人の目の光。

「ははは、僕はとんだ道化だった訳だ」






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