不運−01page
風が渦を描いて巻き上がる。
地上数十メートルのビルの屋上。
空は夕焼けの赤と夜の黒がクラデーションを描き、後一時間もすれば、地上は車の放つライトやビルの明かりによる人工による光の海に包まれるだろう。
延々と聞こえるのは風の音。うなり声。
高い音はどことなく不安を誘う。
「ねぇ」
呼びかけたのは女。
フォーマルなスーツを着て、風に揺れる服の裾を押さえながら人懐っこそうな笑みを浮かべている。
「飛び降りるとでも思った?」
そう言って立っているのはビルの縁。
腰までの柵、その内側には2メートルはありそうな頑強なフェンス。
彼女はその柵とフェンスの間に立っていた。
いったいどうやってそんなところに入り込んだのか。
「いーや、全然。そんなこと思ってないよ」
彼女の言葉に答えたのは、随分と若い、いや幼いと言ってもいい位の声だった。
屋上の出入り口のすぐ横にもたれかかってじっと彼女を見ている少年がいる。
膝丈のジーンズに黒のTシャツ、デニムのジャケット。目深に被った帽子のせいでその表情はとても読み辛い。
いつからそこにいたのかは彼女も知らない。
気付いたらそこにいたのだ。
「キミはそんな人じゃないもの」
「そう?」
生意気な口調の少年に対してくすぐったそうに微笑んで、ビルの縁から一歩離れる。
そして、改めて少年の方に振り返る。
「何をしてるのかな?」
「私の事?」
「他に誰もいないよ」
少年の言う通りだった。
ここには誰もいない。
「そうね。誰も…いないのよね」
目を細めて、さっきまで立っていた方向を見る。
「ちょっとね…思い出していたの」
「何を?」
「昔を」
女は今度は空を見上げる。
夕方でも夜でもない空。
その瞳は遙か遠くを見ている。
「あいつに好きですって言った時もこんな空だったなぁ…」
「あなたの恋人の事?」
「そうよ」
上を向いたまま、視線だけを少年の方に向ける。
その横顔は微笑みながらもどこか寂しく悲しかった。
「…少なくとも私はそう思ってたわ」
突風が彼女の髪を巻き上げ、彼女は落ち着いた手つきでそれを押さえていく。
そして、ビルの縁にそって歩きだした。
「愛とか恋とか興味ないって嘯いてて…ずっとそんな事に縁がなかったから…舞い上がってたわね。とても…」
再び視線を少年から空へ戻す。
「幸せだったわ。とても…」
その頬を一筋の涙が流れる。
「本当に好きだったんだね」
「あなたにはいるのかな、そんな人が」
「いるよ」
「その人もあなたを好きなの」
「わからない」
即答して、こう付け足した。
「でも、僕が好きだからどうでもいい。何もかも捨てて尽くしているよ」
少年には恥じらいも躊躇もなかった。
女はそんな少年に軽く目を見張った。
「羨ましいな」
「何が?」
「その一途さが」
溜息が洩れた。
「私ね…不安だったの」
「………」
「あいつが別の女の人といるところを見てしまった時、自分が捨てられるんじゃないかって不安になったの」
「キミはその人の事好きだったんでしょ? そしてその人も」
「…そうよ」
「だったら、何が不安なの?」
「…だって」
少年を真っ直ぐに見る彼女はもう泣いていなかった。
ただ、その表情はどこまでも悲しさに満ちた笑顔だった。
「私は5歳も年上で、何かにつけムキになる性格だし、取り立てて美人って訳でもない…」
「その人はそれを不満に思ってたの?」
「…さぁ。考えすぎだったのかも知れない。でも、何もかもがうまくいきすぎていたから…それを失くす事がどうしても耐えられなかったの」
風が吹いた。
二人の間に流れる会話を吹き流していくように…。
「…聞いたの?」
しばらくの沈黙の後、少年が聞いた。
「何を?」
「その女の人とはどういう関係かって」
「まさか」
自嘲の笑みを浮かべて女は何かに耐えるように自分の両肩を抱いた。
「聞けないわよ。怖くて」
そして、女は屋上をゆっくりと見渡した。
「気付いたら…ここに立っていたの」
一巡りしてやがて戻ってきた。
始めに立っていた場所へ。
「フフッ、あなたの言う通りよ。聞けばよかったのにね。でも…あたし、馬鹿だから…だから」
「キミの意思じゃない」
断定的な言葉。
「え?」
「運がなかった。…ただ、それだけだよ」
「…運…か」
彼女が呟いた瞬間、屋上の扉が開いた。
ハッと彼女はそちらを向いて、そして凍り付いた。
固い靴音を立てて、屋上へ上がって来たのはごく普通のサラリーマンと言った風の青年だった。
彼は一歩一歩、彼女に近づいていく。
距離が詰まるにつれて、彼女の体も表情も硬くなっていく。
そして、彼女の前を…
「あ……」
まるで、誰もいないかのように彼はそこに膝をついて、手にしていたものをコンクリートの地面に置く。
それは花束だった。
しばらく男は動かなかった。
そして、女も動かなかった。いや、動けなかった。
だが、彼が小さく何かを呟いた時、
「ごめんなさい…許して…」
耐えきれずに彼女は自分の顔を押さえて嗚咽を漏らした。
彼が呟いたのは…彼女の名前だったのだ。
© 2009-2011 覚書(赤砂多菜) All right reserved