夢と現−2page






 まず目に入ったのは天井だった。
 しばらく、静枝は自分が目覚めている事に気付かなかった。
 そしていつもそうしているようにゆっくりと部屋を見渡す。
 必要最小限のものしかない、小ぎれいな部屋。
 夫が時々、少し位は飾るものは自分が欲しいと思ったものを買えと苦笑混じりに言うが、これまで静枝はそれを実行した事はない。
 別に部屋を飾るのが嫌いと言う訳ではないが、かと言って好きでもないし、自分が欲しいものを買って満足するより、夫や娘が欲しがっているものを買って、喜んで貰える方が嬉しい。
 タンスより下着と服を取り出して、寝間着に手をかける。
 ブラジャーを付けようとして、ふと開いたままだった三面鏡に映る自分に気付いた。

「まだまだ、若いわね」

 言って自分で照れてしまい、いそいそと気恥ずかしげに着替える。
 夫が聞いていたら、笑われるだろう。
 着替え終わって廊下に出る。
 聞こえるのは微かに聞こえる自分の足音だけ。
 夫も二階の娘もまだ夢の中。
 ダイニングに入って、ドアを静かに閉める。
 これでよし。
 多少、大きな音を立てても密閉されている為に音が洩れづらい。

「さて、始めるか」

 ダイニングテーブルを囲うイスの一つに掛けっぱなしだったエプロンをかけて、キッチンに立つ。
 さぁ何を作ろう?
 毎朝そうしているよう、ちょっとだけ悩んだ後、キッチンに香ばしい匂いが漂い始める。
 手際よく料理箸を動かし包丁を走らせる。
 結婚当初はよく失敗して夫を泣かせたものだが、今ではベテラン主婦と呼んでも差し支えないだろう。
 夫はまだ小学生の娘に対して真剣に『不公平だ』とこぼしているが…
 そんなにあの頃の料理はまずかったのだろうか?
 ………
 一瞬手が止まった。
 …やめよう。過去を振り返るのは。
 一心に朝食作りにはげんで、やがてそろそろ準備が終わろうかという時、二階から微かな振動が伝わってくる。

「寝ぼすけさんが目を覚ましたか」

 もう一人のおっきな寝ぼすけさんは……と、
 廊下の軋む音が近づいている。と、それは途中でとまって、ドアの開く音が聞こえた。
 先にトイレに入ったらしい。

「中で新聞読んで時間忘れないでね」

 笑いながら、テーブルに朝食を並べていく。

 今日も一日、幸せな時間が始まっていく。



 夫も娘も出ていって一人きりの時間。
 といってもやる事は山ほどあった。主婦というのは忙しいのだ。
 掃除、洗濯、他にもする事は色々ある。
 一段落ついた時には、午後になってずいぶんと経っていた。

「もう、こんな時間なの」

 溜息一つ着いて、外に出られる格好に着替える。
 買い物に行かなくては。
 準備を整えて外に出る。
 スーパーへの行き道で顔見知りの主婦仲間達とすれ違う。
 井戸端会議の真っ最中で、会話に誘われたが買い物を口実にそのまま別れる。一度参加してしまうと、買い物が何時になるのか分からなくなってしまうからだ。
 それに話題には夫や子供達に対する愚痴が多い。もちろん、冗談半分なのだろうが静枝には少しついていけそうにない。
 もちろん夫と娘について思う所がないと言う訳でもないが、それでもそれらを含めて彼等を愛している。だから、それを愚痴にしたくない。
 やがて、歩いているうちにスーパーの看板が見えてきた。

「あら?」

 ふと、静枝は歩くスピードを緩めた。
 道の脇にぽつんと少年が立っていた。
 年の頃は娘より少し上くらい……中学生だろうか?
 目深に被った帽子のせいで顔がよく見えないので、年齢もいまいちつかみづらい。
 向こうもこちらに気付いたようだ。顔をこっちに向けている。
 静枝はそのまま通り過ぎようかとも思ったが、何故か気になって気付
いたら少年の前に立っていた。

「どうしたの? 学校は?」

 今日は平日で少年くらいの年頃なら、まだ授業中のはずである。
 少年はそれに答えずにただ、静枝を見上げている。

「どうしてこんな所にいるの?」
「おばさんこそ」

 おばさんという言葉が少し胸に突き刺さった。
 娘の友達には良く言われているが、見知らぬ少年にまでそう言われるとは…。

「おばさんはね。今日の夕飯の材料を買いに行く所なの」

 表情に動揺がでないよう勤めて笑顔を返す。

「ふう…ん」

 少年の方はと言えば、さして気にした風でなく静枝を見ている。
 そして口を開く。

「どうしてこんな所にいるの?」
「?」

 少年は静枝の言葉をそのまま返して来た。

「だから買い物…」

 言おうとして、口を閉ざす。
 少年はただ、静枝を見つめているだけ。なのに彼女はだんだん不安になってきた。
 どうして自分はこんな所にいるの?
 どうして? 買い物に決まってるでしょ?
 どうして自分はこんな所にいるの?
 どうして? 買い物に…
 どうして自分はこんな所にいるの?
 どうして? それは…
 視界が一瞬ブレた。
 体がよろめく。倒れそうになるのをかろうじて持ちこたえる。

「早く抜け出そうよ。こんな場所から」

 ハッとして周りを見渡す。
 別に何も変わったりはしていない。

「買い物…に行かなきゃ」

 呟いて歩き出して数歩、そして慌てて振り向いた。
 そこには静枝以外誰もいない。
 あの少年がいた痕跡はどこにもなかった。






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