空を望む−10page







「まだ来てないのかな」

 周りを見渡してキラは首を傾げる。
 以前と同じ場所に立っているが、それらしい姿も彼女が連れていた光もない。

「待ってればくるだろ」
「そうだよね」

 うろうろと付近を歩きまわるキラ。
 ふいに彼女が踏んだ部分から光が漏れ始めた。

「わわっ、な、なにっ」
「これって…月光だろ?」

 その暗さを含んだ色は紛れもなく、月の光だった。
 漏れた光は球をかたどって、幾度か二人の周りを旋回する。そして風に流されるようにふわふわとどこかを目指して飛んでいく。

「付いていけばいいのかな?」
「たぶん、そうじゃないか?」

 光球はまるで二人が付いて来るのを確認するように何度も止まりながら進んでいく。

「しかし、なんでこんなまわりくどい事をしてるんだろうな」
「もしかして、かなり早くに来すぎたんじゃないかな?」
「なに?」
「雨宿り」
「…なるほど。さっきのところには雨宿りする場所なかったからなぁ」
「こんな良い空が信じられない位だったし」

 言って空を見上げる。
 何度も何度も見慣れた星空。月もなく星だけが支配する世界。初めて彼女の心を捉えた空の宝石。
 胸が高鳴った。
 一つ。
 二つ。
 三つ。
 鼓動は強く強く鳴り響く。

「…キラ?」

 いつのまにか立ち止まっていた。数歩先でヒューが振り返る。

「ん、なんでもない」

 無意識に手を胸元に当てながらヒューの横に並ぶ。
 忘れろと自分自身に対して彼女は言い聞かせる。
 もう空へと伸ばした手を降ろしていいのだと。
 母との約束も意地も過ぎ去った事なのだと。

「あれがそうじゃないか?」

 何時の間にか伏し目がちになっていたキラがその言葉に顔を上げる。
 広く広く枝を広げた古木、その根元は葉に遮られて他の地面ほど濡れていない。
 光球は幹に触れるか触れないかの所で今度は上に昇っていく。

「こんばんわ」

 挨拶が降ってくる。今にも折れそうな細い枝に腰かけて《月詠》が微笑んだ。
 二人を導いた光球は《月詠》の周りを漂う他の光球に混ざり、葉によって星明かりが遮られた闇を照らしている。
 彼女は二人が根本へ来るのを見計らって、枝から飛び降りる。まるで体重がないかの如く枝はしなりもしなかった。

「ごめんなさい。わざわざこっちに来てもらって。待ってたら雨が降ってきたから」
「いいえ、あそこじゃ濡れてしまいますから…あれ?」

 キラは首を傾げた。何か微妙に違和感を感じた。
 雨が降ってきたから?
 降っていたではなくて?

「あの」
「ん? なにかしら」
「いつから待っていたんですか?」
「そうね。だいたい向こうから太陽が見えた位…だったかな?」

 指差す先は東の山。
 つまりは早朝から待っていた事になる。

「え、えっ!? そ、そんなに早くからっ!!?」
「ああ、気にしないで。私が早く来すぎただけだから」

 いくら早いと言っても限度というものがある。
 困惑するキラに苦笑しながら彼女は言った。

「元々、良く地上には降りるのよ。…懐かしいから」
「懐かしい?」

 と後ろにいたヒューがポンと手を打つ。

「そう言えば、確か」
「私は《水守》の里出身なの」

 一瞬の沈黙。そして悲鳴のような驚きの声。

「えぇぇぇっ!!!」
「こ、こらっ、お前っ。思いっきり失礼だろ」
「あわわわっ。す、すいませんっ」

 二人が狼狽する様を見てクスクス笑うリリ。

「別にいいわよ。それに《水守》の里にいた時に散々無謀だのなんだの言われたしね」
「そ、そうなんですか」
「実際、色々と苦労はあったけど、結果としてそれが実った訳だから今となってはいい思い出よ。でも、時々《水守》の里にいた時の事を思い出してね、たまにこうして地上に降りるの」

 それで証を落とすのだから世話ないわね、とリリは肩を竦める。
 ふとキラは考え込む。
 落ち零れと言われた自分。無謀だと言われた彼女。

「諦めようとか思った事はないんですか?」
「特には…ね。《月詠》に憧れてしまった時から他の事は見えなくなったし。それに前例がまったくなかった訳じゃないしね」
「…そうですか」

 結局、彼女も手の届く位置にあったのだ。欲しいものが。
 気付かれないように気をつけながらも肩を落とす。
 リリは気付いていたようだが、何も触れなかった。そして、少し間を空けて彼女は切り出した。

「それで、答は決まったかしら?」

 言おうとして言葉に詰まった。
 情けない。すでに決めていたはずなのに。
 自分のふがいなさに落胆しながらも、せめて終わりの言葉くらいははっきり言おうと大きく息を吸い込む。
 吸い込んだ勢いで上へと視線が移った。

「あ…」

 葉の隙間から星が見えた。
 一歩後ずさる。葉と枝に遮られて見えなくなった。
 一歩下がる。見えない。
 一歩下がる。見えない。
 一歩二歩三歩…

「お、おいっ」

 ゆっくりと後退を続けるキラを訝しがってヒューが呼び止めるが止まらない。
 そして、リリは何故か止めようとしない。
 キラの後退は枝葉の天井が切れるまで続いた。
 星だけの空。月はなく、雲は流されて無限の数の星が輝いている。
 頬が熱い。それが涙だという事すら気付かずに彼女はずっと空を望む。

『わたし…わたしも《星詠》になるから』

 どこまでも続く星の川。
 そこに憧れた昔の自分。
 何も考えずに、何も知らずにただ望んだ。

「なりた…かったんだ」

 約束とか、誰かの迷惑とか…そんな事と同列に存在しない想い。

「わたしは…《土守》になりません」

 固まるヒュー。表情を変えぬリリ。二人を揺るがぬ瞳で見つめるキラ。

「では、《火守》に?」
「いえ、わたしは…」

 結局、答は決まっていたのだ。
 彼女には初めからそれしかなかったのだから。

「《星詠》を目指します」
「飛べないのに?」
「いつか、必ず飛べるようになります」
「これから何巡り必要か分らないわよ?」
「関係ないです。どれだけかかるかなんて」
「本当に?」
「…たぶん《土守》になっても夜空を見る度に思うでしょう。今のわたしの感じているような事を。ずっとずっと夜空の星に焦がれながら役目をこなすなんて…辛いだけです」
「届かなくても構わないという事かしら?」
「届かないなら望んではいけないんですか? …いいえ、もしそうであっても許して欲しい。わたしは《星詠》になりたい。ただ…それだけ。それだけしかないんです」

 静かな声。震える肩。祈るように組み合わされた両手。
 しばらく三人とも言葉もなくたたずんでいた。
 言葉を発したのは…

「そう」

 リリは軽く息を吐いて髪を書き上げた。漂う光がそれに合わせて跳ねる。

「分った。そこまでの想いなら何も言う事はないわ。ならば」

 《月詠》は地を蹴った。枝葉を縫って空へと舞い上がる。

「次に会う時は空でかしら。もしも会えたなら今度はゆっくりと話しましょう、未来の《星詠》殿。友人想いの《風守》殿もまたいずれ…」
「あ、あのっ」

 空へと舞い上がろうとしたリリを呼び止める。
 小首を傾げる彼女に対してぺこんと頭を下げた。

「ありがとうございました」

 リリは目を細めて頷く。

「役目に励む同胞が増える事は我ら精霊の喜び。それが他の役目であっても同じ精霊である事には変わりない。例えそれが回り道であったとしても、心よりその役目を望むのであれば、その道は祝福されてしかるべき」

 そうして地上の二人に背を向けて手だけを一振りすると、その先に生まれた一筋の光が尾を引いてキラの足下に落ちて爆ぜた。それは一瞬真昼のような光量を生み出したにも関わらず二人の目を灼かなかった。

「あなたに月と星の祝福を。空と地、そして世界の全ての法の加護があらん事を」

 一瞬の閃光の後にはリリの姿は消えていた。





「あーあ、《月詠》の長候補直々に祝福の言葉を貰うなんて。お前はどこの大物だよ」

 どれだけの時間が過ぎたのか。
 呆れたようにヒューが零す。やや、苦笑気味だった。

「まだ、小物にすらなれてないよ」
「あー、そうだよな」
「あ、酷いっ。あっさり肯定しなくてもいいじゃないの」
「自分で言ったんだろ。それよりさ」
「なに?」
「後悔しないのか?」

 言われて、「んー」と考え込む。

「半分、勢いだったし」
「って、ちょっと待てっ。おいっ」
「あははっ。でもねっ、後悔するかも知れないけどね。それはたぶんずっとずっと先の話だと思うから」
「じゃぁ、結局するんじゃないのか? 後悔」
「今、望んでいる事じゃないから。今、止めたらやっぱり後悔すると思うから」
「…そっか」
「うん」

 二人は示し合わせたように空を見る。
 唐突に空を横切る光の帯。

「堕ちた…な」
「うん、間違いなく堕ちたよ」
「そっか」
「じゃ、仕事だから」
「そっか、がんばれよ」

 そう言い残してヒューも夜空へと消えていった。

「…そう言えばヒューも仕事あるはずだよね。大丈夫だったのかな?」

 首を傾げて、すぐに自分にも仕事があったのだと頭を切り換える。
 星が堕ちたのはキラの担当の土地の端。
 ここからでは結構な距離がある。急がないと人間に星が見つかってしまう可能性もある。

「さ、いくかぁ」

 彼女は全力で走り出した。今までがそうであったように、全力で。
 目指すは堕ちた星、そして《星詠》。
 辿り着くまではもう彼女は止まらない。


−完−






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