空を望む−09page






 《星詠》の里には風は吹かない。
 なぜなら《風守》がそのように風の流れを調整しているからだ。
 ただ、それは《星詠》の里がある雲だけで、その周りは常に吹き荒れる風とそれに乗って千切れ流れる雲に囲まれている。
 いつもなら里の端から、流れる雲の隙間を縫って人間の村が見えるのだが、今日に限って見えない。
 それは隙間なく敷き詰められた雨雲の為。今日は雨が降っているのだ。
 どうせ、見えたところで外に出ている人間の姿は見られないだろう。
 雲の上にある《星詠》の里はいつもと変わらないが、地上は豪雨だろう。
 仕方無しにキラの視線はより高くを流れる雲を追って、追いすぎてそのままパタンッと背中から倒れる。
 そのまま起き上がらずに大の字になって目を閉じる。
 色々な事が脳裏に浮かんだ。
 ほんの数日で色々な事が起きて、初めはかなり混乱していたが新月を今夜に控えた今では落ち着きを取り戻している。むしろ、心の整理がついた分、以前の彼女よりも余裕があるように見えた。

『迷惑も何も存在自体が邪魔です』

 かつて同期の《屑星拾い》だった《星詠》がそう言った。
 ああ、その通りなのだと、今なら納得出来る気がする。
 お笑いだ。決して届かないものを追い続けていたのだから。

『あなたがなるのは大変かも知れないわよ?』

 かつて自分を育ててくれた《星詠》はそう言ってくれた。
 彼女はこうなるかもしれないと分っていたのだろうか?

『じゃぁ、いつか一緒に空を飛びましょう。我が子よ』

 いつまでも飛べはしないのだと、分っていても彼女は同じ事を言えたのだろうか?

 懐から《土守》の証を取り出した。
 錆だらけだったはずのそれはいまや金属の光沢を取り戻している。錆を落として何度も丁寧に磨いた結果だ。
 以前と同じ物だとはとても思えない。
 それはまるで彼女の決意を祝福しているようだった。

「《星詠》を諦める…か」

 元々そのつもりだったはずが、いざその気持ちを切り捨てようとするとたまらなく胸が痛んだ。
 その度に思い浮かんだ《屑星拾い》の日々。一心に《星詠》を目指した日々。

『では、いつか一緒に空を飛びましょう。我が子よ』

 それは約束を守る為だったか?
 だけど、その約束を果たす相手はいないのだ。
 だったら…

「もう、いいと思うの。なのに…」

 なのになぜこんなに引っかかる想いがあるのだろう。
 何かが違う。なにかを間違えている。
 そんな気がした。
 だが、何が違うのだろう。
 彼女は両手を上げて、手のひらを空へと翳す。

「こんなに近くにあるのにね」

 なんて空は遠いのだろう。
 それとも、遠いのは空ではなく彼女自身なのか。

「《星詠》に…母さんの子に…生まれたかったよぉ…う、ううっ」

 嗚咽が洩れた。涙が頬を伝って零れた雫が《土守》の証に当たってはねる。
 後が残るほど強く々々証を握りしめる。
 皮膚が薄く切れて微かに血が滲んだ。
 ふと、誰かの視線を感じ、慌てて涙を拭いて立ち上がった。
 そして視線の主と目があった。

「スイ…」

 取り巻きはいない。
 彼女はしばらく睨むようにキラを見ていたがしばらくしてプイッと顔を背けていってしまった。
 どうやら、あの時の事をいまだ根に持っているらしい。
 キラは疲れたように肩を落とした。
 おちおち悲しんでもいられないようだ。

「それでも、このままどっぷり浸っているよりマシかな?」

 今日はリリに返事をしなければならない日だ。
 頭の中をスッキリさせておかなければ。
 この時ばかりは、スイの存在に感謝した。





 そして日が落ちると共に《星詠》と《屑星拾い》が動き出す。
 新月の夜が来たのだ。

「リリ様…、じゃないリリさんの言った通り。月のない夜だ」

 星しかない夜空。
 昼間降っていた雨も止んで、空に漂う雲は数えるほどしかない。
 地面はぬかるんでやや走り辛かったが、この程度なら仕事に影響はないだろう。

「もしかしたら、こうして星を拾うのも後何回かになるのかもしれないけど…」

 だからこそ精一杯がんばろう。
 いつから里を移るのかは分らないが、いままでの感謝を込めて《屑星拾い》の仕事に励もう。
 それはキラの誠意だった。
 結局、届かないままだった役目。だけど、その存在を怨めない。憧れは届かなくても憧れなのだ。

「あ、そう言えば…」

 なぜか、唐突に思い出した。
 初めて母と共に地上に降りた夜も新月だった。こんなキレイな星空だったのだと。

「《星詠》になろうと決めた日と同じ月齢だったなんて。やっぱりあの時から決まっていたのかも知れないね」

 自嘲の混じった笑顔を浮かべて、すぐに顔を引き締めた。
 空から落ちてくる微かな光が見えたのだ。
 星が堕ちたのだ。

「さぁ、仕事仕事っ」

 キラは星を目指して駆け出した。





 その夜に堕ちた星はいつもより多いわけでなく、かといって少ないわけでなく。
 いままでと変わりのない夜だった。

「…さて、いこうかな」

 泥に汚れた靴を履き替える。さすがに《月詠》の長候補に会うのだ。
 みっともない格好で会いたくはない。
 もっとも、服の裾にも微かにはねた泥が付着していたが、あいにく服の替えは用意してなかったのでしっかり拭いてそれでよしとした。

「よぉっ」

 聞き慣れた声が空からかかる。

「ヒュー、どうしたの? ここはあなたの担当じゃないじゃない」
「ん? ああ。やっぱり、気になってな」

 地面の状態が気になるのか、地に足をつけないままキラの前まで降りる。

「今日だろ?」
「うん」
「これから行くのか?」
「うん」
「…決まったのか?」
「考えたけど…でも、他に道はないと思った」
「そうか…」
「うん」

 キラは歩きだし、ヒューがそれについていく。
 黙々と先を行くキラにふと思い出したようにヒューが言った。

「南方の火山帯のある辺りってかなり遠いよな」
「…うん。そんなの聞いた事なかったから調べてみたら気が遠くなる距離だった」
「俺も知らなかったから調べてみて驚いたよ。…向こうまで行っちゃったらもう会えなくなるな」
「そうだね。でも…」
「でも?」
「空はつながっているから。どこまでも」
「…ああ、そうだな」

 二人はそろって月のない夜空を見上げた。
 雲もほとんどなくなって、星の海という形容がしっくり来る輝ける空。

「いつかさ」
「ん?」
「こっちの風を土産にそっちに遊びにいくからな」
「…うん、ありがとう」

 空に一条の閃光が流れた。

「星が堕ちたな」
「ぎりぎり担当を外れたみたい」
「そっか、なら大丈夫だな」
「うん。でも、今度はこっち側に落ちるかも知れないから…」
「少し、急ぐか?」
「うんっ」

 キラは駆け出し、ヒューが少し速度を上げてそれに続いた。






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