魔女の森の白き魔女−05page






 その日は何かが違っていた。
 その事に気付いたのはいつだったか。
 シルルは呼ばれたような気がして振り返った。
 勢いに引きずられるように白い髪が、純白の旗のように宙になびく。

「…ふぅ」

 彼女を囲む森の木々がいつもと変わらない事を確認して再び歩き出す。
 陽は真上にあるものの枝葉や背の高い草が陽光を遮り視界は決して良好とは言えない。
 そんな中、足下もロクに見えない獣道をまるで石畳の上を歩くかのように淀みなく進んでいく。
 街の人間なら一目見ただけで尻込みするような獣道も彼女にとっては通い慣れた道でしかない。
 だが、いつもならとっくに住処にたどりついているはずなのに、今日に限っては後3分の1程の距離が残っている。
 理由はならはっきりしている。
 さっきから何度も立ち止まっては振り返りを繰り返しているからだ。

「なんなのかな? いったい」

 首を傾げる。
 彼女の手には拳大の大きさに膨らんだ布袋が掴まれている。
 中身はある種の苔をとある草の汁に数日浸した後、乾燥させてほぐしたものだ。
 強心剤として効果が高く、山を一つ越えた湾岸の街ではそこそこの高値で引き取ってくれる。
 この数ヶ月適度に雨が降った為か、薬の質は申し分ない。
 まだ油や香辛料などのストックはあるが薬を換金してそういったものを早めに補充しておこうかな、と頭の中で計画を立て始める。
 と、また足が止まる。
 今度は振り返らない。
 いい加減、何度もやっているので何もない事が分かっているからだ。
 彼女は手にしている布袋にもう片方の手をやる。

「忘れ物をした訳じゃないしね」

 この薬は彼女の住処から少し離れた所にある作業小屋の地下室で作っていて、今はそれを回収して帰る所だ。
 もしも、忘れ物があるとしたら薬そのものだが、それはちゃんと手にある。
 他にあるとしたら…。

「あ…、そっか。戸締まりだ」

 ぽんっ、と手を打つ。弾みで布袋を落としかけて慌てて持ち直す。
 思い返してみれば薬を回収した後、鍵をかけた記憶がない。

「どうしよう。別に他に誰かなんて来ないから意味ないんだけど」

 唇に手を当てて少し迷う。
 確かに他の人間は来ないが、気まぐれな獣が入り込んでしまう可能性がある。

「さっきから気になっていたのはこれだね。仕方ない、これ置いてから戻るか」

 布袋の薬は光を嫌う為、今から作業小屋に引き返すと中身が痛んでしまう可能性がある。
 何かを納得するように頷くと、彼女はさっさと作業小屋に向かうべく住処へと急いだ。





 甲高く、鐘の音が鳴り響く。
 本日の全受業終了の合図だ。

「あー、終わった終わった」

 首をコキコキ鳴らしながら大儀そうにノビをする。
 教室には手品師のような早業で教科書を帯で束ねて飛び出していく者もいれば、のんびりと他の生徒との雑談を楽しんでいるグループもある。
 エドはというと、なんとなく呆けた顔付きで窓の外に見えるエルゲ山の麓の森を眺めていた。
 その森には名前はなかったが、この街の人間のほとんどが魔女の森とそう呼んでいた。
 白い髪の魔女が住むと信じられている森。
 だが、エドは知っている。それが間違いだと言うことを。

「何やってんだ? エド?」
「ん〜、別に?」

 わしわしと頭をかき回す手から逃れると、後ろに立つ年齢を考えるとかなり大柄な体格の少年を見上げる。

「で、何しに来たの? ロック」

 ジロッと半眼で彼の顔を見る。
 と、相手は後ろめたそうに一歩引いた。

「まだ根にもってるのかよ」
「べーつーにぃ? 気のせいじゃないか?」
「そ、そうか?」
「そうだよ。魔女探しの発案は確かに俺だけど、みんなに呼びかけた事まで俺のせいになっていたり、【叫び岩】の向こう側に行ったのは俺一人だけってなってる事なんて、ぜんっぜんなんともおもってないよ? 俺は」
「…おもっきり根にもってんじゃねぇか」

 憮然とロックは呟く。

「当たり前だ。俺はこの一週間、何かあるたびに親父に殴られる日々を送ってるんだぞ。母さんも自業自得とかいって止めないし。おまけに学校ではどの先生もその事をネチネチいびりやがる。そして、極めつけは…」
「ロック? エドはいなかったの?」

 教室の出入り口から聞こえる声に、エドはそちらを見もせず親指で指して言った。

「…あいつだ」
「何よ。ご挨拶ねぇ。根性無しの分際で」

 ぴくっ。
 エドのこめかみが震えた。
 声の主はわざわざ正面に回り込んで視界に割り込む。

「サラ、誰が根性無しなんだ?」
「さぁ、誰でしょうね? 例えば意気込みだけで森に突入して行方不明になったあげく、崖から落っこちて丸一日気絶してるような人の事じゃないかしら」

 ぴくくっ。
 またこめかみが震える。
 ロックが額に手をあてて天を仰ぐ。

「ほらほら、その辺にしとけ」

 まだ挑発を続けようとするサラと今にも噛みつかんばかりのエドの間に割ってはいるロック。

「ほら、とっとと片せよ。遅れるぞ」
「ん? 何のことだよ」

 サラを牽制する視線をそのままに怪訝な声を上げる。
 ロックと何か約束した覚えはない。
 その様子にロックは何か気付いたように頷く。

「そっか、お前は知らないんだな」
「だから、何が」
「流れの芸人達が来てるのよ」
「この時期に?」

 サラの言葉に眉をひそめる。
 辺境を回る芸人達は珍しくもないが、今の時期は稼ぎ時でこんな田舎街ではなくどの芸人も中央へ向かっているはずである。
 中央都市の方が市民の生活水準も高く、芸に対する対価も高い。
 うろんげな表情のエドを見て、サラがさらに説明を加える。

「なんでも、芸の修行をする為に無報酬でそこらの街を渡り歩いているそうよ」
「なおさら、中央でやればいいんじゃないのか?」
「ずっと同じ所でやるより、いろんな人に見てもらう方が修行になるんですって」
「そんなもんか?」
「それに私のお父さんに一座の団長さんが挨拶したかったんだって」
「ん? サラの父さんと知り合いなのか?」
「父さんじゃなくて死んだお爺さまの方みたい。昔、団長さんの一座に多少の援助をした事があるそうよ」

 サラの家はこの街では一番の果物商だが、祖父は中央でも名の知れた商人で生鮮食料の流通を握っていたとエドは聞いていた。

「顔広かったもんなぁ、サラの爺さん。中央の偉いさんとかもたまにサラの家に来るもんなぁ」
「お爺さまはともかく、お父様は一介の果物商なんだから困ってるみたいだけど…」

 苦笑まじりにもらすサラ。

「だけど、今回に限って私は大歓迎よ」
「まぁ、確かにサラのお爺さんのおかげかもよ」
「ふ〜ん」

 喜色を浮かべるサラとロックに、気のなさそうに頷くエド。
 そんな彼の様子にサラが首を傾げる。

「何よ、嬉しくなさそうね?」
「ん〜、気が乗らない」

 言ってスタスタと二人を置いて歩き出す。
 置いていかれた二人はぽかんとその背を見ていたが、エドが教室の出入り口に辿りついたあたりでようやく我に返る。

「ちょ、ちょっと、エドッ! どこいくのよ」
「どこって、帰るんだよ」
「あん? いかねぇのか?」
「今日はパスする」
「了解」
「て、ちょっと人が誘ってるのに。あんたもあんたよ、なにあっさり了解してるのっ!」
「ててっ、コラ、ひっかくな」

 教室から響いてくる悲鳴から逃げるようにエドは教室を後にした。





「なんで、ここで立ち止まるかなぁ」

 誰にともなく呟いた。
 そこは、街の外へと続く分かれ道の前だった。
 その道の先にはエルゲ山へ、そしてあの森へと続いている。
 本来は薪売りや、森の中でも比較的手前の方で狩りをする猟師達が行き来する道だ。
 森から帰ってきて以来、ここを通る度に立ち止まってしまっていた。
 今日もまた真っ直ぐ家へと帰るはずが遠回りのはずのこの道を通って来てしまっている。

『ん。元気でね。バイバイ』

 その最後の声が耳から離れない。
 森の奥へと消えていった、白髪の少女の後ろ姿が今も脳裏に焼き付いている。
 通り過ぎようと一歩踏み出す。
 もうあんなのは沢山のはずだ。
 あの後、散々怒られたし殴られた。
 魔女なんていないって分かったし、もういいじゃないか。

『それでもうれしいよ。私、そういうの始めてだったから』

「馬鹿な奴」

 ぎゅっと拳を握りしめていたのにも気付いていなかった。
 本当に短い時間だった。それでもエドの心の中ではかなりの割合が彼女の事で占められていた。
 珍しい芸人達の来訪の事も、サラ達との雑談も耳からこぼれていく位に。

「ちょっと位、遅くなってもバレないよな」

 誰にともなく呟いて、森へと続く道を踏み出してした。






© 2009 覚書(赤砂多菜) All right reserved