魔女の森の白き魔女−16page
いつもは駆け足で上っていく獣道を、今日に限ってはゆっくりと一歩々々確かめるように歩いていく。
【叫び岩】はとうに過ぎた。
本によれば、魔女が捕らえられたのはあそこだと言う。
「………」
余計な事を考えたせいか、森に入ってまで誰かに見られているような感覚が付きまとう。
自然と足が速くなった。
作業小屋までたどり着くのにいつもより時間がかかった。
小窓から中を確認するがシルルがいる気配がない。
奥の家の方か?
そう思って離れようとして、
「エド?」
声をかけられて振り向いた。
白髪の少女が小首を傾げていた。
「何してるの?」
「いや、シルルがいるかどうか…」
「だったら玄関を叩くとかしたらいいのに」
彼女は首を傾げたまま、錆の浮いた錠前に鍵を差し込む。
「だんだんと硬くなってるねぇ。これはそろそろ代えた方がよさそう」
「…シルル」
「ん、なーに?」
「これなんだけど…」
「?」
差し出された本を受取って目を丸くする。
「えーと、これは?」
「そこ、しおりのはさんである所を開いて」
「ここ? …て、これ。え?」
顔色が変わる。
それでそこに書かれている事がシルルに無関係でない事が分かった。
「なぁ、それってどういう事だ?」
「…どうしたの? これ」
「街の図書館で調べたんだ」
「そっか」
「なぁ、教えてくれよ。なんでこんな事が書かれているのか」
「それは…」
「ここに書かれている魔女って、いったい誰なんだ?」
自分では落ち着いているつもりだった。
だが一語々々紡ぐ度に早くなっていく鼓動。
パタンッと本を閉じる音に肩が震えたのが分かった。
シルルは閉じたままの本に祈りを込めるように目を閉じている。
「シルル…」
しばらくしてようやく目を開いた彼女は押し返すようにエドに本を渡すと、無言で作業小屋の中へ入っていく。
その背がどこか拒絶しているように思えて、一緒に入れなかった。
小屋の中からは何かを捜してる風な気配がする。
外で待ち続ける事に心が耐えきれなくなって来て、中へ声をかけようかどうか迷っている所へシルルが出てきた。
中身を適当に詰めたといった感じの膨れかたをした布袋を手にしている。
彼女の目は何かを決意したと同時に諦めの混じったような、そんな不安定な光を帯びていた。
「付いて来て」
「え?」
「教えるから。全部」
言い放ってエドがついて来る事を確認もせずに早足で歩き出す。
慌ててその後を追う。
「どこに行くんだよ?」
エドの問いに彼女は答えない。背が質問の答えを拒否している。
そのまま、エドが知らない獣道を行く。
藪を抜けて蔦をかき分け、まるで初めてこの森に足を踏み入れたような錯覚を覚える。
結局、どれだけ慣れているつもりでもここは街の人間の場所ではないのだと思い知った気がする。
そうして、どれくらい進んだのだろうか。
距離感がすっかり狂ってしまってもう来た方向もはっきりしなくなっている。
一人で戻れと言われても無理だろう。
ふいに森が開けた。
足を止めたシルルの横に並んで、思わず目を見張った。
そこには切り立った岩壁と、民家の一つや二つは余裕で入りそうな洞窟がある。
微かに生臭い匂いが漂ってくるそこは真っ暗で奥まで見えない。そうとう深いらしい。
シルルは無言でその場にしゃがみ込んで、布袋の中身を取り出す。
見て分からないものが多かったが、袋から出てきた物の一つが火口箱である事は分かる。
落ちていた太めの木の枝に布をまいて小瓶に入った透明な液体を吸い込ませる。どうやら簡易の松明らしい。
しばらくして、作った火種から松明に火が灯る。
薄暗い森とはいえ、まだ太陽が昇ったままの明るい時間帯なので炎が弱々しく見える。
「入るのか?」
「ううん、入らないよ」
返事を期待した訳ではなかったのだが、答えがようやく返ってきた。
だが、入らないのならなぜ松明が必要なのか。
シルルはさらに細長い帯状の布を取り出す。
染みだらけでお世辞にも奇麗とは言えない。
彼女は布の先端に小石を括りつけ、勢いをつけて燃える松明の先端に巻きつける。
瞬間、白い煙が噴き出した。
普通の煙とは明らかに違うと判る煙。
エドはそれをどこかで見た気がした。
(あれは…)
シルルは洞窟に向けて一歩踏み出した。
そして松明を持った手を大きく振りかぶる。
「っ!」
渾身の力を込めて洞窟へと投げ放つ。
それは放物線を描いて、洞窟の奥へと消えた。
「エド、これを…」
間髪いれずに彼女はエドに手のひらを差し出す。
そこにはリンゴの種程度の大きさの粒があった。何かを練って固めたもののように見える。
顔を近づけてみると途端に強い匂いが鼻先を襲う。
「これって言われても、どうすれば」
「飲んで」
「は?」
「いいからっ、早くっ!!」
「飲むって…これを?」
匂いだけでも、十分に口に含む気を奪っていく。
だが、シルルの声もどこか切羽詰まっている感じがする。
覚悟を決めて、ぎゅっと目をつむり一息に飲み込む。
幸い味はほとんど感じなかった。もっとも、勢いがつきすぎてむせたが。
「げほっ、なんだよ。これ」
「………」
シルルからの返答はない。
彼女はずっと洞窟を見つめている。と、中から先程の煙が漏れて漂ってきた。
鼻をつく酸っぱい匂い。
嫌な覚えのある匂いだった。
「あ、これは…」
反射的に一歩引く。
ようやくさっきの煙の正体に気づいた。
これはいつかエドの体を麻痺させた煙だ。
「やべっ、これを吸ったらまた」
「大丈夫」
「え?」
慌てて距離をとろうとしたエドを掴んで引き止めるシルル。
「さっき予防薬を呑んだでしょ?」
「あ、あれか?」
「すぐ効果が出るように調整してあるから。洞窟の中にでも入らない限りは大丈夫」
「でも、解毒剤はないって言ってただろ?」
「解毒剤はね。いったん煙の影響が出たらどうにもならないけど、影響が出るのを防ぐ事は出来るのよ」
効かないとは言われても、過去の経験があったため煙が漂うここにあまりいたくなかったが、彼女が動く気配を見せないため、エドも動けずにいた。
ふいに洞窟の中から何かが聞こえてきた。動物の鳴き声のようなもの。
それも無数に。
何が起こったのかエドには理解できず、シルルの表情を伺うが、彼女はまるで動じずに一言だけ警告を発した。
「びっくりするだろうけど。間違っても傷つけたりしちゃだめだから」
聞き返そうとした時、洞窟の奥の暗闇が表へと飛び出した。
ぎょっと目を剥くエド。
しかし、よくみると飛び出したのは暗闇でもなんでもなく…
「ネ、ネズミッ!?」
そう、地面を埋め尽くすような無数のネズミが津波となって突進して来る。
咄嗟に逃げ出そうとするが、シルルがエドを掴んだまま動こうとはしない。
もしも逃げたとしても数歩も走らないうちに追いつかれただろうが。
ネズミの大群は二人の足元を駆け抜けていく。
同時にあの煙の匂いも強くなっていく。
洞窟中に充満した煙がネズミにたっぷりと染み込んだらしい。
以前にシルルは麻痺するのは人間だけだと言っていたが、なるほど確かにネズミにはそんな気配は見当たらない。
「何をした…んだ? あれは」
呟きながら脳裏を過ぎった魔女の伝承の一文。
『不思議な薬で獣を操り、皮膚が腐る呪いを蝙蝠に乗せて運ぶ。』
彼女はあの煙についてなんと言った?
『違うわよ。あれはネズミとかコウモリに使うの』
「何をしたんだよ? 今のは」
背中に冷たい汗が流れる。
聞いてはいけない。知ってはいけない。
そんな予感が全身をかけぬけていく。
それでも問いは止められなかった。
知ってはいけないと同時に、知らなくてはいけないと心の奥底で何かがそう告げていた。
だから、聞いた。
聞こうという気持ちがかろうじて残っているうちに。
ネズミはとうに走り去り、辺りは静寂に包まれている。
立ち尽くしたままのシルルは顔だけをこちらに向けて少しだけ笑った、虚ろに。
「…大した事じゃないよ。ネズミに病気の治療薬を焚きつけただけ」
「ある病気って?」
「本で読んだよね?」
疲れたような笑みで首を傾げる。
そんな彼女を見て、エドは笑い返す気にはなれなかった。
『皮膚が腐る呪いを蝙蝠に乗せて運ぶ』
「別にネズミでもコウモリでもどっちでも一緒なんだけどね。たまたまあの時がコウモリだっただけで」
「あの…時?」
魔女の呪いが単なる獣からうつる病なら?
呪いなんて存在しない。
それなら魔女は?
処刑されたはずの魔女。
呪いが存在しないなら魔女は存在したのか?
魔女は…
いや、処刑されたのは誰だ?
「ここに来てようやく生活が苦にならなくなってきた頃だったなぁ、あれは」
そう言って、彼女は語りだした。
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