欠落の代償−14page






 後、三歩だ。
 例え相手が逃げたとしても、その前に捕まえる。
 夜の闇の中、獲物は確かに目の前にいる。
 後、二歩だ。
 暗がりの中でも相手の表情がわかる。
 青ざめた頬、見開いた瞳。唇が微かに震えている。
 後、一歩だ。
 手を伸ばせば届く。
 そして開放されるのだ。
 全てから。
 そうして、彼女は同年代の少女を抱きしめる。
 なぜ、同じ中学生のはずのその少女がこんな時間、こんな場所にいるのか。
 いまはそんなくらだない疑問すら浮かばない。
 吐き気を及ぼす臓物の臭いの中、獣の血を吸った刃物が背中へと回される。
 少女の表情は見えない。
 ただ、触れる頬と頬から微かな震えが伝わる。
 暖かい。
 他人との触れ合いがこんなに暖かいものだと始めて知った気がする。
 そして、それはこれから失われる。
 他ならぬ彼女自身の手によって。
 呼吸がどんどん荒くなる。
 恐い。
 それは恐怖に他ならなかった。
 犬猫を肉塊へと変えた己の手は、人間に対しては意思を受け付けない。
 それでも抑圧された欲望が形のない拘束具を引き剥がしていく。
 少女が苦しそうに吐息を漏らすのが耳に入る。
 抱きしめる腕に力を込めすぎたらしい。
 彼女は腕を緩めた。
 心の内で己の愚かさを嘲りながら。
 これから殺す人間になんの気遣いがいるのだろうか?
 そうして凶器が高く振り上げられる。
 さぁ、後は振り下ろすだけ。
 それで全てが終わる。
 いや、逆だ。
 それで幕が上がるのだ。
 あの殺人鬼と同じ、死と狂気の舞台へと。

「………」

 ふと、少女が何か言った気がした。
 許しを請うているのか?
 それとも怨みごとか?
 耳を澄ます。
 …どちらでもなかった。

「何をしたいの?」

 そこに恐怖はなかった。
 脅えもなかった。
 抱きしめた腕から震えが伝わってきていると思っていた。
 だが、震えているのは彼女自身だった。

「あのヒトの…ようになりたいの」

 それは少女に対して言ったのか。
 あのヒトが誰か、そんな事は少女に分るはずもないのに。
 だが、その事を少女は尋ね返さなかった。

「こうすればなれるの?」
「わからない。でも、他に…他に知らない。どうすればなれるかなんて分らない。だから、こうするしかない」

 その為に、今こうして自分とは何の関わりもない人間を殺めようとしている。
 だが、次の言葉は逆に彼女の心臓を止めてしまいそうだった。

「いいよ」

 理解出来なかった。
『声』という音は耳に入っても、『言葉』の意味は届かなかった。
 だから、聞き返す。

「な…んて? なんて…言ったの?」

 頬が暖かい。なんて事だろう。
 何時の間にか抱きしめていたのは彼女ではなく少女の方になっていた。

「あなたがあたしを必要としているのなら。あたしをあげる」

 そして、少女は口にした。
 その後の彼女を縛る言葉を。

「そのかわり、約束して」





「あの時が私にとって本当の始まりだったのかも」
「んー、なんの話?」

 学校からの帰り道。
 少し先を歩いていた真理亜が聞きとがめて振り返る。

「なんでもない、ただの独り言」
「ぶー、気になるぅ」
「ちょっと、思い出していただけだから。気にしないの」

 真理亜は不承々々納得したようでそれ以上追求して来なかった。

「それでどうする? まっすぐ帰る?」
「あたし、お腹すいたぁ」
「はいはい。じゃ、何か食べていこうか」

 苦笑しながら真理亜の背を軽く押して喫茶店やらファーストフードが並ぶ通りへと向かせる。
 その時、真理亜が振り返った。

「…なに? なにか食べたいものでもあるの?」
「そうじゃなくてぇ」
「???」

 狭霧は首を傾げる。なんだろう?

「うーんと辻斬りさんの事だけどぉ」
「…なんで?」
「なんとなく思いついたから」
「なんとなくで思いつくような事じゃないと思うんだけど」
「だーれかさんが、夜中に探し回ってるみたいだから。その正体を知ってるのかなぁって」

 言葉に大きなとげがあった。
 それはもう刺さってくれ、そう言わんばかりに。

「…えーと」
「あ、間があいた」
「細かい事は気にしない」
「メモメモ」
「メモるな」
「気にしない。で、どうなの?」
「どうって…、そうね。知ってるかもしれないし、知らないかもしれない」
「…なんかあいまいかつ意味ありげ」
「気にしない」
「ぶー」
「ほら、膨れてないで。いくよ」

 話はそれで終わりとばかりに狭霧は真理亜の背を押した。






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