欠落の代償−25page
「真理亜?」
毎度のごとく階段裏まで迎えに来た彼女の様子が少し変に思え、狭霧は首を傾げた。
「もう眠気は大丈夫なんだ? 授業中に寝てたの?」
「狭霧じゃないんだからぁ」
「そう」
「で」
「ん?」
「なにしてるのぉ?」
シンプルな疑問。
真理亜の視線は狭霧の手に向けられていた。
「…別に」
「そんなの出しっぱなしにしておくと先生に怒られるよぉ?」
「怒られるだけじゃすまないと思うけど」
”焼けた殺人鬼”の使っていたナイフのレプリカ。
床に腰を降ろし、背を壁に預けた状態のまま刃に自分を写し、それ越しに真理亜を見つめる。
「何が見える?」
「何も…」
「そっか」
ゆっくりと真理亜が近づいてくる。狭霧は小さく息を吐いてナイフを仕舞おうとする。
が、柄を握る手が止まる。手を押しとどめるように真理亜の手の平が包んだからだ。
「真理亜?」
怪訝そうに名を呼ぶ。
彼女は知っているはずだ。
これに手を触れられるのを自分が好まない事を。
しかし、彼女は臆することなくゆっくりとナイフを持ったままの手を自分の胸元へと引きつけていく。
「え? なにを…」
彼女を見つめるが、彼女の欠落は見えない。
見えるはずがない。
彼女は欠けていないのだ。
だけど、何かが変化しつつある。
見えないだけで、それは確かに狭霧にしかない感覚が捉えていた。
「手を離して」
音が聞こえる。
固く、薄く、微かに、だが…聞こえる。
まるでひび割れるように。
違うそんなはずはない。
彼女は欠けていない。
欠けるはずがない。
”焼けた殺人鬼”に焦がれ、殺人鬼を望む自分を赦し救った彼女が欠けているはずがない。
「離して…」
力無い呟きは真理亜に届かない。
笑顔を湛えたまま、刃に首筋をあてる。
「真理亜っ!? やめ――」
言い終わる前に、赤い線に目を奪われた。
肌を伝い襟を染め、刃を伝って手を濡らす。
浅く紙一枚程食い込んだ刃。
手が震える。
力が入らない。
手を押さえる真理亜の手の平を振り払えない。
「やめて…、ねぇ、真理亜?」
「なぜ?」
彼女は離さない。
血の臭いが鼻をつく。
どくんっ、どくんっ、と心臓が高鳴る。
歓喜…そして恐怖。
「食べちゃってよ。遠慮する必要なんてない。どうしていつまでたっても手を出さないの? あたしはずっと待っているのに」
「わ、たし、私は」
「それとも…もう、いらないの? 物好きな羊には興味無くなっちゃった?」
包む手の平が解ける。
呆然とした目で狭霧は真理亜を見上げる。
あえぐように狭霧は言葉を投げかける。
まるで弁解するように。
「違う。そんなんじゃないっ。私は真理亜をっ!」
「でも、殺さないんでしょ? 誰かを殺したい人なのに」
「それはっ!」
真理亜はポケットからハンカチを取り出して赤く染まった首に当てる。出血そのものは大したことはなかったが、それでもハンカチは赤く染まった。
「ねぇ、狭霧。狭霧が望むならなんだってあげられるよ、あたし。狭霧があたしを特別だと思っていてくれるなら。でも…狭霧にとってあたしは特別ではないの? 他の誰かで間に合わせる事が出来る存在なの?」
また音がする。
ピシッと硬質な音が。
ああ、そうか。
分かった気がする。
これは自分のせいだ。
自分が彼女を欠けさせようとしているのだ。
欠けていないはずの彼女を。
では、どうすれば良い?
殺すか? 彼女を。
そして、”焼けた殺人鬼”へと辿り着くのか、筒井よりも先へ。
だが、辿り着いた場所には優しい羊は…。
「私は…」
真理亜は溜息をついて、もう一度ナイフへと手を伸ばしてくる。
びくっと怯えたように体を震わせるが、真理亜はナイフを持つ手をホルダーへと誘導する。
「そろそろ戻らないと先生が不審がるから、ね」
そして、狭霧を置いて廊下へと戻っていく。
「真理亜?」
「先に戻ってて。保健室にいってくるぅ」
ぱたぱたと手を振って廊下の向こう側に消えた。
「ちゃんと教室に戻ってないと怒るからねぇ」
最後に残した声に狭霧はのろのろと立ち上がる。
そして、今気付いたかのように手の平から腕の半ばまでに付着した真理亜の血をじっと見つめる。
綺麗というには無理がある、べっとりとはりついた汚れた赤。
ただ、なんだろう。それが真理亜の血であると思うだけで…心臓がかすかに高鳴る。
下腹が何かを求めて疼く。
気付けば舌が味を脳に伝えていた。
唾液でべとべとになるのもかまわず血を舐めとっていく。
そう言えば、と思い出す。
昔にもこんな事があった。
”焼けた殺人鬼”の手に付いた血を舐めとった自分。
あの時から今まで自分は変わっていないのか、それとも変わってしまったのか。
いや、考えるまでもなく変わってしまったに違いない。
”焼けた殺人鬼”と真理亜。
どちらに手を伸ばすかなんてあの時なら迷うはずもない。
「でも、もう選べない」
滑稽な二律背信。
殺して”焼けた殺人鬼”の欠落を目指すか。
欠落を諦めて、真理亜という安息を得るか。
得体の知れない予感が告げる。
どちらを選ぶにしろ、時間はもうないという事を。
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