夢売りのミン 第七章 夢売りは神々の元へ。−第05話






 ミンが崖に手を当てる。
 まるで川の小屋がそうであったように、崖が少し下がりそして開いていく。
 中は奥すら見通せぬ一本道だった。

「行くのか?」
「はい」

 彼女は振り返らなかった。普段は背負っている木箱を手に持ち前へ進もうとした。
 それをイヌカイの両腕が背後から阻んだ。

「いくな」

 声が震えている。

 分かっている。これは仕方のない事なのだと。
 彼女は夢売りなのだ。こうなるのは必然だった

 だが、だからといって死へと向かう愛した女を止めずにおれるのかっ!

 彼女の手がイヌカイの腕に触れる。
 引き剥がそうとしているのだろう。しかし、その手の力は弱い。
 彼女が本気なら、イヌカイの腕から逃れる事など容易いはずだ。





 この腕から逃れるのはなんて難しいのだろう。
 腕を、背を通して伝わって来る体温。
 向こう側に行ってしまえば二度と失われる。
 分かっていた。これは仕方がない事なのだ。
 夢売りである以上、この別れは必然。

 なのに、ずるいですよ。イヌカイさん。……私にこの腕を拒めと?

「離して下さい。イヌカイさん」
「嫌だ」

 彼も分かっている。こんなのは茶番。
 結局道は一つしかない事を。

 なんで……。なんで一つしかないのですかっ。
 私、死にたくないのですっ。イヌカイさんともっと旅を続けたかったのですっ!

 嘆きは誰にも届かない。彼以外には。





 奇妙な香り。気付くのが遅かった。
 身体から、力が抜けていく。

「ミ、ミン……」
「すいません。イヌカイさん。すぐ動けるようになりますから」

 彼女を拘束していた腕が外れ、膝が崩れ、地に伏した。
 ただ、顔だけは彼女を向いていた。
 彼女は香りの元と思われる紙包みを捨て去った。

「卑怯なのは分かっています。……でも、これが私の精一杯なのです」

 一歩々々、歩を進める彼女。その間、振り向きもしなかった。
 そして、完全に崖の内側にはいって、ようやく踵を返した。
 膝をつき、両手を床につけ、彼女はまっすぐイヌカイを見た。
 笑顔だった。笑顔のまま涙を流していた。
 そして、無言のまま、頭を垂れた。
 岩の門が閉じていく。
 そして、完全に閉じるまでの間、彼女は決して頭を上げなかった。





 あれから何年たったのか。
 囲炉裏の火を見つめて、イヌカイはミンとの別れを思い返していた。
 あの後、イヌカイは薬師として旅をした。
 薬の知識はミンから教わったもの。そして、旅の途中で新たに加わったものもあった。
 ミンが消えた後も死の川に対する耐性はかわらず、大陸中を歩いてまわった。
 そればかりか、インターフェースのモジュールがいつの間にか使えるようになっており、死の川の小屋に出入りする事も、中の機器も使う事が出来るようになっていた。
 当然、眠り粉も作れるようになっていたが、それだけはしなかった。
 それは夢売りの仕事だからだ。
 今いるのは、ミンと最後の夜を過ごした小屋だった。
 大陸を丁度一周してきた事になる。
 彼女との思い出に浸りながら、いも焼酎に口をつけ、軽く炙った魚の干物をかじる。
 売上から適当に野菜類を出して金串に刺して、囲炉裏にたてる。

 ちょっと、酒が多すぎるか。

 いつもの事だが、苦笑いが浮かぶ。
 すでに彼女と共に過ごした時間より長く旅を続けているというのに、薬の対価に酒を求める事が多くなるクセが抜けない。
 結局は飲みきれず、旅の途中の村で村人に分ける事になるのだが。

「未練も……、ここまでくれば立派なものだな」

 ん? 誰か来たか?

 玄関が開く音がした。
 玄関の戸を開ける事が出来るのは夢売りのみ。例外はインターフェースが使えるイヌカイのみだ。

 他の夢売りが来たか。

 イヌカイは嘆息する。旅の途中、同じように小屋で鉢合わせた事が2度あったが、夢売りでもないイヌカイが、小屋を使える説明に苦労した覚えがある。

「あれ? いー匂いがしますね」

 心臓がはねあがった。
 ただ、声が似ているだけだ。そう、自分に言い聞かせ。

「奥を使わせてもらっている。食い物があるが食事でもどうだ?」

 動揺が口にでないように気をつけるあまり、馬鹿な事を口走ってしまった。
 夢売りは基本、食事は必要ないのだ。

「お食事ですかー。まだ下界に降りて間もないですので興味がありますねー」

 そして、やってきたのは。

「……ミン?」
「はい?」

 かつて、腕からはなれた彼女と変わらぬ姿の者がそこにいた。
 違いは髪をまとめていない事と、木箱を背負っているのではなく、半分以下の大きさのものを手に下げているくらいだ。

「あの、なぜ私の名を知っているのでしょうか? それにあなたは夢売りではありませんね?」

 やや、警戒を含んだ声音。
 銀の左目は神々に通じているとかつて聞いた。
 これはその神々のいたずらか? ここまで似せて偶然もあるまい。
 なんと……、なんと残酷な事をしてくれる。

「え? あの? どうかなさったのですか?」

 イヌカイは涙を流していた。

 ああ、それでも。いたずらだろうが、なんだろうが。

「気にするな。夢売りでもない俺がここを使える訳は、少々話しが長くなる。それでいいなら食べながらでも聞いてくれ。酒もあるが、飲むか?」
「お酒は飲んだ事はないですが……。興味はありますね」

 イヌカイは無言で茶碗にいも焼酎を注ぎ、彼女に渡す。

「囲炉裏に立ててるのは適当に食べてくれ。さて、俺の事だが……、どこから話したものか。そうだな、まずある夢売りの話からだな。
 酒好きで、食い意地がはっていて、そして人間が好きだった……そんな夢売りの話だ」

 彼女はイヌカイが愛したミンではない。
 それでも。それでもなお、あの日失ったものが戻ったように思えてならなかった。



  第七章(終章) 完






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