(…さん。真鈴さん)
長く々々、呼びかける声がする。
どれくらい、放心していたのか。
我に返った真鈴は自分の部屋にいる事に今ようやく気付いた。
「…え? なんで」
呆然と呟く。
自分は今、魔物と戦っていたのではなかったのか?
(もう大丈夫です)
おだやかなマリンの声。
そう、とだけ呟きベッドの脇に寄りかかる。
服もちゃんと戻っていた。
だが、夢ではないことは確かだ。体が未だに痛んであちこちに血の跡が残っていた。
今に至ってようやく顔からも鉄仮面が外れている事に気付く。
「うっ、ううっ」
ぽろっと零れた涙の雫が、床に落ちていたマリンに当たって飛び散った。
「うわ…、ぐす…」
怖かった。終わったはずなのにまだ怖かった。
喧嘩ならした事がある。
誰かを殴った事も殴られた事もある。
だけど、あれは違った。
記憶の最後にある、振り下ろされる脚。
あれがもし刺さっていれば…。
「マリン…」
5分程、ベッドに頭を押しつけて泣いていた真鈴が顔を伏せたままいった。
「…あんた言ったよね? 逃げるのは無理だって」
「………」
「ねぇっ!! 言ったじゃないのっ!!!」
「…はい、確かに言いました」
「じゃぁ、これはなにっ!!!」
がばっと顔を上げて部屋中を示すように腕を振る。
その瞳は怒りに染まっていた。
「嘘…ついたね」
「それはっ」
「それは…なに?」
「…いえ、その通り…です」
理由は確かにあった。
使うわけにはいかない理由が。
だが、嘘を言ったという事実には変わらない。
いや、もし嘘云々を言うのならば以前からずっとマリンは嘘をついていた。
「そう…」
何一つ弁明をしないマリンに、涙を拭いて目を背けて真鈴は言った。
「もう一切関わり合いになるつもりないから。ヨリシロ探しも一人でやって」
返事を待つことすらせずに真鈴は部屋を出ていった。
「その必要は…もうありません」
誰もいない部屋でマリンはポツンと呟いた。
キッチンで機械的に夕食を胃に詰め込んでいると父親か帰ってきた。
「…おかえり」
「ん? どうしたんだい? なにか元気なさそうだけど」
「んーん、なんでもない」
「その腕はどうした? 痣になってないかい?」
「なんでもないって。ちょっとぶつけただけだから」
涙が残ってないか手で確認しながら生返事を返す。
ふと、眉を潜める。
「父さんこそ、なんか顔色悪いよ?」
「んー、ちょっと体がだるい…かな? 一応、風邪薬は飲んできたけど」
「ちょっとちょっと、人に気をつけろって言っておいてっ」
「大丈夫だよ。たぶん、一晩寝たら治ってるって」
「と・に・か・く。今日は早く寝てよ。TVなんて見ずに」
「い、いや。TVぐらいは…」
「だ・め」
「せめて、野球の試合結果だけでも」
「見るまでもないでしょ。あのチームに負ける以外の存在価値なんてないでしょ?」
「ま、真鈴っ。それはあんまりじゃ」
「じゃなかったら、万年最下位じゃないわよ。ほらっ、いいから。御飯は?」
「あ、食べてきた」
「はい。じゃぁお風呂は沸かしてるからさっさと入ってきて。…あれ? 風邪の時は風呂に入っちゃいけないんだっけ」
「いや、そこまで酷くないから入るよ。それに結構汗もかいたし」
「んー、じゃさっさと入ってよ」
「はいはい」
娘にせかされ、苦笑しながら風呂場へと向かう父親。
それを見送ってはぁ、と溜息をつく真鈴。
今のなんでもない会話でギザついた気分が少しは楽になった気がした。
目覚めたのはすでに10時を回っていた。
体を起こすと微かに体の節々が痛みを訴える。
それを無視して机の上の鉄仮面を見つめる。
そろっとベッドから降りて、机のそばまで歩み寄る。
「出ていってもらうからね。今度は戻ってこないでよね」
返事はない。
始めから期待していなかったのか、部屋から真鈴は出ていった。
階段を下りてキッチンまで出て眉を潜めた。
暗い。カーテンが閉め切ったままだ。
「父さん、まだ寝てるの?」
首を傾げた。
いくら日曜とはいえ、基本的に早起きの出来る親子だ。
真鈴と違って寝過ごす原因は…。
「あ、そう言えば風邪気味とか言っていたっけ」
コップ一杯の牛乳を飲み干してから、気になったので再び二階に戻って父親の部屋をノックする。
返事はない。
「寝てるのかな?」
起こすのも悪いかなと思ってキッチンに戻ろうとして、何かイヤ予感がした。
ドアに耳を寄せる。
何も聞こえない。いや…。
微かに荒い息づかいが聞こえる。
「父さんっ! 開けるよっ」
バンッと勢いよく開けて部屋に入った真鈴の目には、顔を真っ赤にして荒い息をつく父親の姿だった。
意識がないのか、かなり大きな音がしたにも関わらず何の反応も示さない。
「父さんっ、ちょっと父さんっ! しっかりしてっ!!」
額に手をあててすぐにぎょっとした顔で引っ込める。
「凄い熱…、何よこれ」
泣きそうな顔で真っ青になる。
そして、すぐにはっと我に返る。
「救急車っ! まっててね、すぐ救急車呼んでくるから」
父親の部屋を飛び出し、階段を降りようした時に体が凍りついた。
(真鈴さんっ!!!)
唐突に割り込んだ『声』にすぐさま反応を返せなかった。
だが、我に返って怒鳴り返した。
「うるさいっ。今あんたにかまってる暇ないのっ。邪魔するなっ」
(無理ですっ)
「うるさいっ!! 黙れっ!!!」
(無理ですっ! 医者ではどうしようもないんですっ!!)
言葉が出てこなかった。
マリンの言った言葉を反芻する。
医者では? どうしようもない?
(どういう事?)
『声』で問いかける。
(これは…ただの病気ではないんです)
(じゃぁ、なに?)
(白疫鬼の仕業です)
(…え?)
足は自然と自分の部屋に向かっていた。
「それ…どういう事?」
「前にお話した事があると思いますが、魔物は他の存在の力を奪うと」
「それが?」
「白疫鬼は病を操る魔物なのです」
「………」
真鈴は無言で父親の部屋の方を向く。
そして視線をマリンに戻す。
「な、なに? じゃぁあれはあいつの仕業なの?」
「…風邪が流行っているって言っていましたよね? 学校で」
「う、うん」
「迂闊でした。もう少しそこに注目していれば予測出来た事だったのに。微かにですが、あなたのお父さんの部屋から奴の気配を感じます」
「ちょ、ちょっと待ってよ。じゃぁ、薬とかじゃ治らないの?」
「所詮病なので普通の治療も効果はあるのですが。奴は病にかかった人間から力を吸い取っています。もし、薬を投与しても病の力を増やして維持させるでしょう。そうしなければ力を吸収する手段が絶たれてしまう訳ですから」
「じゃぁ、どうすればいいの。あんなに苦しそうなのに…」
「…真鈴さん。私をあなたのお父さんの部屋を持っていって下さいませんか?」
「え?」
「うまくいくかどうか分かりませんが…、病を引き起こしてる源を排除してみます」
躊躇する真鈴。
だが、マリンはかまわず急かす。
「さぁ、早くっ」
「う、うん」
マリンを持って父親の部屋に入る。
「適当な場所に私を置いて下さい」
戸惑いながらも言われた通りにサイドテーブルの上に置く。
理を外れし力
不浄なる欠片
歪みし律
その全てを除外する
「リムーブ・カース」
視覚上は何も変化は起こらなかった。
だが、真鈴には見えざる力が父親を包み、その体内へ浸透していくのを感じ取っていた。
やがて、父親の体の内側からすり抜けて、小さな輝きが浮き上がる。
「イレイズッ!」
弾けるようにそれは消えた。
「…もう大丈夫です。しばらくは白疫鬼の力に再び侵される恐れもありません」
マリンの言葉を証明するかのように見る見ると父親の呼吸が落ち着きを取り戻していく。
「随分と体力を消耗しているのでしばらくは目を覚まさないでしょう。体が辛いでしょうから、このまま寝かせてあげて下さい」
「う、うん」
目を覚まさないと言われてはいたが、音を立てないようゆっくりと自分の部屋へと戻る真鈴。
パタンッと後ろ手にドアを閉めてしばらく無言のままだった。
「…ありがとう」
それは数分の沈黙の後で出た言葉だった。
「真鈴さん」
「…なに?」
「お願いがあります」
「言ってみて」
「駅前にしてもらえますか?」
「…なんの事?」
「私を捨てる場所です」
真鈴は目を見開いた。
お願いと言うのだから、てっきりまたヨリシロになってくれと言われるのかと思ったからだ。
さっきの事があったから真鈴は断りづらかったはずなのに。
「…いいの?」
「はい」
躊躇する。
だが真鈴は自分で言ったのだ。
『別に他人がどうなろうと知ったこっちゃないわよ』
だから本当は迷う事などない。
「分った」
マリンを机に置いて、真鈴はのそのそと着替え始めた。
その間、二人は始終無言だった。